Episode.2 The boy is discovering a new world.

 ユイは眠ると、決まってある夢を見る。

 それは初めて奴隷として買われた家での話。厳しい環境下で働いていた中で、ある日突然何の前振りもなく雇い主である男に押し倒された。

 可愛いと耳元で囁かれ、するりと腰を撫でられる。それから先の事は思い出したくもない――、しかし夢は残酷に見せつけてくるのだ。

 身体を這う舌。汗に混じる強い香水は嗅覚を麻痺させ、脳をくらくらとさせる。血が滲むほど叫ぶ、こんなにも自分の声が出る事に驚きながら。熱くなる身体。気持ち悪いという感情が心を食い尽くしていく。

 頬につうっと、涙が伝った。



「ユイ...?」

 パッと目を開けると、シノが不安そうな顔をして覗き込んでいた。一瞬あの男の影と重なって身体の動きを止めて呼吸が荒くなるが、一度深呼吸をすると落ち着いた。

「大丈夫?」

 シノの手が頬に伸び、そっとユイの頬に伝っていた涙を拭う。

 日頃受けていた対応との違いに、ユイはただ身体を強張らせていた。シノは小さく微笑み、ポンポンと安心させるように頭を撫でた。

「おはよう、ユイ」

「...おはよう、......ございます」

 ユイはその顔をぼうっと眺め、ハッとした顔になって起き上がる。

「ぼ、僕、っご飯!!」

「あ、いいよ。マキが作ってるから」

 確かに、美味しそうな匂いが漂ってきていた。

 シノは手触りの良いユイの頭を撫でるのを楽しんでいるのか、ユイが起き上がってできたスペースに腰を下ろし、本格的に頭を撫で始めた。その彼の腕の中で、ユイの頭はどんどん真っ白になっていく。

 自分の仕事を他人にさせている。何もしていない事に罪悪感しか感じない。

「...ユイ、暗い顔してどうした?」

「僕、...何も出来てない...。そんなの、いる意味って...」

 思いつめた表情に、シノは小さく溜息を吐いてペシと頭を軽く叩いた。

「いてくれるだけでいいんだよ。別に君が何もしなくても、俺達は君に卑劣な事はしないさ」

 シノは安心させるように笑いながらそう言う。

「何してるんです、先輩? 朝ご飯出来ましたよ」

 リビングのキッチンから、マキが二人の居るソファに顔を覗かせる。

 マキの顔を見て、シノはユイの頭から手を退けて、ソファから立ち上がる。そしてユイの手を握って、リビングの椅子にユイを座らせる。

 テーブルの上にはバケットに入った硬めのパンと、一口サイズに鶏肉が切られたものが入ったトマトスープが置かれていた。

 ユイの隣にシノが座り、目の前にマキが座った。

「その...えっと...、マキさん、ごめんなさい」

「んあ?何で謝るの?」

「僕の...、仕事なのに........。やらせてしまって...」

 マキは不思議そうに首を傾げるが、すぐに察したようで小さく笑った。

「気にしなくていいよ。昨日は疲れてたんでしょ?なら私がやってもおかしくないさ」

 マキは快活にそう言ってのけるが、ユイは曇り顔のままだ。シノはそれを見てポンと肩を叩く。

「いいから食べな。ただでさえ折れそうに細いんだから」

「........はい」

 ユイはスプーンを持って、そうっとトマトスープを口へ運ぶ。

 それは、今まで口にしてきた中で美味しい食べ物であった。

「ふふふ、ユイ。硬いパンだから、トマトスープに浸して食べてね」

 マキは大きく見開かれているユイの碧眼を見つつ、バケットにあるパンを指差した。ユイは小さく頭を下げて、パンをスープの中に小さくちぎって入れ、そうっと口に運んだ。

 パッとユイの表情が輝いたのを見て、シノとマキはくすくすと笑った。

「美味しい?」

「凄く、美味しいです」

「よかったよー」

「マキは料理上手だからね」

「そりゃ何度も作れば、ある程度は作れるようになりますよ」

 マキの言い分に、シノは苦笑いする。


 三人は時間をかけて、食事をしていく。それが終わると、シノは昨日使った拳銃の整備に取り掛かり、マキは食器を洗い始める。ユイもマキを手伝おうとキッチンへ向かうが、マキはこつんと肘でユイの額を小突いた。

「子どもは、ゆっくりしてなさい」

「っでも僕...。シノのペ」

「シノはそういう扱いをしたいわけじゃないんだから、人の好意には甘えておきなさい」

 年上の余裕なのか、マキはユイに休むように言う。それから改めて食器洗いをし始めた。

 ユイは自分だけ何もしていないという状況に耐えられず、キョロキョロと視線を巡らせて、そわそわと動いてしまう。

「ユイ、大丈夫?」

 その様子に、整備を終えたシノが微笑みながら肩を叩いた。

「だ、大丈夫じゃな、いです。...僕、何かしなくて...、いいんですか?」

「俺は居てくれるだけで癒されてるけどなぁ。それじゃ駄目かな?」

 シノは優しく言う。しかしユイの表情は曇ったままだ。

 年相応の少年のように遊んだりはしゃいだりする事なく育ってきたユイには、仕事をしない方が落ち着かない。何もしないのが、おかしくてしょうがない。

「......ユイ、こっちおいで」

「へ...。はい」

 シノに言われるがまま、ユイは彼の後ろへついて行く。そこは彼の部屋だった。


 リビングの半分程しかない、狭い部屋だった。しかし狭いながらにも空間を上手く活用しており、小奇麗に片づけられていた。ただ元々なのか、窓は埃で汚れており、壁紙が少し剥がれそうになっている箇所があった。

 シノはタンスから黒いフード付きの服と、短い丈のズボンを取り出す。それをユイに手渡した。

「え。え」

「着替えて。買い物行くから」

 シノはそう言って鞄を取り出して、準備をし始める。ユイは大きな背中を少し見つめ、反対方向を向いて着替えをし始める。


 身体のあちこちにある爪痕や傷痕、火傷痕。面白半分で傷つけられた生々しいこれらを見るのが、傷よりも何よりも酷く苦痛であった。

 シノは小さく顔を動かして、ユイの傷を観察していた。少年に付けていいとは思えないものばかり。無意識に鞄を持っている手がきつく握りしめられた。

「き、着替え、ました...」

「ん」

 シノは見ていた事が知られないよう、何もなかったように振り返った。

 服の大きさは全くあっておらず、服の袖は指先まで隠して、鎖骨は全て見えてしまう。下のズボンも短い丈であったにも関わらず、くるぶしの少し下まであり、ユイが持ち上げていないとずり落ちてしまうであろう。

「...やっぱり、大きかったね」

 シノはタンスからベルトを取り出して、ユイの腰に合わせてベルトを巻いていく。ユイは傷だらけの身体を見られてしまうとびくびくし、シノは出来る限り傷を見ないように努める。

 服は袖を捲り上げる以外にはする事がないのでそのままにし、フードをかぶせて顔を見えにくくする。

「え、あの」

「もう昨日の雇い主を裏切ってるのはバレてるだろうし、君が指名手配されててもおかしくないからね。だから一応の安全策だよ」

 シノは微笑みながら言って、昨日とは色の違う白色のマスクを付けた。


 部屋から出ると、食器洗いを終えたマキが二人を―ユイの着ている服を見て、少し目を丸くした。

「そんな恰好で外に出るの?周りの人をユイが魅了しちゃうよ?」

「み、みりょっ!?」

「やっぱそうだよな。マキ、服貸してやれるか?」

 顔を赤らめて固まるユイを尻目に、マキは少し考えてから彼女の部屋へ行った。そしてしばらくして持って来たのは、ボーダーの服。マキはそれをユイへ投げ渡す。

「これ、昔着てたやつ。小さめだから、着てごらん」

 今この場で、という意味を含んで。

 詳しい事情を知らないマキには、ユイの身体の傷の事はよく分かっていないようだ。

 完全に動きを止めてしまったユイを見かねて、シノはマキの目を隠した。

「え、ちょ、先輩?」

「ユイが恥ずかしくて着られないって」

 シノがそう言うと、マキはピタッと止まって「成程」と呟いた。

「恥ずかしがり屋さんなのか」

「...ユイ、着替えな」

 ユイはコクコクと頷いて、素早く服を着直した。これでも少し大きめだが、先程までの服よりは小さい。

 着替え終えたのを確認してから、シノはマキから手を離す。

「...あ、で、これを」

 マキは背後から紺色の帽子を取り出して、ユイの頭に置いた。大き目ではあるが、フード同様に顔を隠す役絵は十分に担っている。

 シノはマキを見た。

「......楽しんできてください」

 彼女は何も言わない。ただ、微笑んでいた。

「うん、ありがと」

「あ、美味しいものとか、食べてきてくださいよ?私、今日は仕事なので」

「分かった。行こう、ユイ」

 シノはユイに手を伸ばした。

 ユイは少し躊躇いつつも、ゆっくりその手を握った。それから空いた手で帽子のつばを持ち上げて、マキの方を向いた。

「...いって、きます......」

「っ!...うん、行ってらっしゃい」

 マキはパッと明るい笑顔になり、二人を見送った。


 二人は家から出て、市場へ足を向ける。

 国の中央に建っている王宮から四方八方へ、整備された道を挟むように市場が作られる。北は軍関連の組織が置かれている為、太い三本道が市場として、東・西・南にそれぞれある。その大きな市場から細い道の市場が伸びている。

 どの場所も、よく賑わっている場所である。

「...しっかり握っててね」

 市場に入る前の細い路地で、シノはユイにそう言った。ユイは返答せずに、代わりにギュッと手を握る。それを肯定と受け取ったシノは、ユイの手を引いて市場の中へと入って行った。


 ユイは初めて目の当たりにする人々の喧騒に目を見開き、キョロキョロと首を動かして辺りを見回している。

 シノはそんなユイの様子を横目に微笑ましく見ながら、普段からマキと共に利用している服屋へ足を踏み入れた。

「親父さん、すみません」

 シノが店内へ声を掛けると、中から男が出て来た。無愛想に顔を顰めた、中年の男だった。

 男はシノを見て、それからユイを見た。その鋭い瞳に堪え切れず、ユイはシノの背中に隠れた。

「......そいつ、どうした?子作りでもしたのか?」

「誰とするんですか、違いますよ。...この子は新しいメンバーの子です」

「ほう...。........ご愁傷様」

 男はシノの背中に隠れているユイに目を向けて、そう言った。

「で、用事は?」

「この子に何枚か服を見繕って欲しい。少なくとも一週間着回せるくらいには。お願いしていいですか?」

 男は小さく頷いて、ユイを手招きした。

「大丈夫。いい人だから」

 シノはユイを安心させるように微笑んで、とんと背中を押した。ユイはゆっくりとシノの背中から離れ、男の方へと歩いて行った。

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