第5話
明日だ。三日月は夜空に瞬く星を睨みつけながら、そう思った。
明日になれば、三日月は外に出られると同時に、この国と離れてしまう事になる。
悲しい。行きたくない。でも、行かなければ。民に被害が出るのは目に見えて分かる。
葛藤を抱えながら、泣きそうになる目尻を優しく抑えて、今日はもう寝てしまおうと布団の方へ足を向ける。
その時、コツコツと何かを叩く音が聞こえてきた。
三日月は不思議に思いながらも、障子の戸をそうっと音を立てぬように開ける。
そこには錬が居た。近くに生えている木からこちらへ飛び移ったようで、窓の桟に足を引っかけて、そこへ綺麗に姿勢を治して腰を下ろす。
「錬!」
「しー、姫様。バレたら俺の首が飛ぶんですから、お静かに」
錬にそう言われ、三日月はすぐに口を両手で覆い隠した。その素早い動きに錬は小さく口元を緩ませる。
「お久しぶりです、少し瘦せられましたか?」
「二人に会えないから、寂しくて...。ご飯も喉を通らなくて」
「胡蝶さん、心配なされていたでしょう」
「まるで手に取るように分かってるのね、胡蝶の事は」
少し棘のある口ぶりで、三日月は錬を睨みつけながらそう言った。
「そうですか?まぁ、日中睨みつけられてたので、何となく見ていたというか」
その発言に三日月は目を丸くして、それから胡蝶がいつもいるであろう襖の向こうを見た。その視線はどこか羨まし気でもあり、忌々し気でもあった。
「いよいよ、明日ですね...。ここから旅立たれるのは」
「っ...。貴方達と一緒に行けなくて、凄く寂しい」
「俺もそうです」
錬は小さく微笑む。それは三日月の目に寂しげに映った。
そこには何も言わずに、錬は懐から小さな短刀を取り出し、三日月に手渡した。
「これを、貴方に差し上げたくて。和泉と昨日、選びました」
三日月はそれをじっと見つめ、錬の方を見てにっと笑った。
「ありがと、すっごく嬉しい!」
花のような笑顔に、錬は思わず喉を鳴らした。
「ねぇ、錬。私、貴方に伝えたい事があるの」
「...はい、何でしょうか」
錬の瞳はしっかりと三日月の目を見ていた。言葉が詰まりそうになるが、三日月は小さく首を振るって、優しく微笑んだ。
「私は、貴方の事が好きです」
三日月はそう言った。
錬はそれを聞いて目を閉じ、少ししてから目を開けた。
「姫、俺も言いたいことがあるんです」
「何かしら?」
三日月は微笑む。錬は小さく息を吸って、三日月の長い黒髪に口づけをする。
「俺も、貴方の事を愛しています」
その言葉に三日月は一気に顔を赤らめて、すっと身を引いて顔を覆い隠した。
「嘘...、本当に」
「俺、嘘は吐かない性格なんですよ。知ってますよね?」
「...確かに、小さい頃に私と和泉の悪戯を母上にばらしたの、錬だったわね」
「昔の事、よく覚えていますね...」
錬は苦笑いをして、三日月の頬に優しく触れた。
「俺が貴女を妻として迎えられる立場なら...、きっとこんなにも悩まずに済むのでしょうね」
「...このまま、連れ出してくれないの?私を、
三日月の縋るような瞳に、錬は静かに首を振るった。
「貴女は俺とは違う。王族としての人生を生きて欲しい。それが俺の願いだ」
「........錬」
「三日月、手を」
錬の言葉に首を捻りながら、三日月はそうっと手を差し出した。錬はその白く細い手を優しく掴み、手の甲へ口づける。
三日月は、時が止められたかのように動けなかった。その行動に魅入られてしまっている。
「俺は、あなたの幸せを常に願っています」
錬は唇を離してからそう言い、隣の木へ飛び移った。三日月は慌てて身を乗り出そうとするが、それも錬に制される。
二人の間の隙間に、僅かな風が吹き通る。
「...ねぇ、錬。最後に聞いて」
「はい?」
「...王族はね、呪いをかけられないように名前を隠すの。三日月は、私の本当の名前じゃない。私の本当の名前を、貴方に知っていて欲しい」
そのしきたりは錬も知っていた。
王族の名隠しと呼ばれるその慣習は、王家に務める者ならば誰もが一度は聞いた事がある話だ。王族の子の名を知る事が出来るのは、その人物の父母、そして夫あるいは妻のみである。
つまり、錬に教えるという事は、お門違い―禁忌にも等しい。
断る事も出来たが、錬の口は断りの言葉を何も言えなかった。ただじっと彼女の言葉を待っていた。
「私の名前は、
影流、と錬は口の中で呟く。それだけで、胸の奥がジワリと温まるような感じがした。
「ねぇ、最後に我が儘聞いて」
「........はい」
「影流、と呼んで欲しいの」
錬は少し目を大きくし、言葉を上手く発せなかった。
それは、許される事ではない。これがもし他の人間にバレてしまったら、恐らく錬の首は刎ねられるだろう。
だが、それでも構わないと思った。
「................影流」
その言葉は、じんわりと三日月の心に染み渡った。
錬はにこりと笑うと、そのまま気を伝い降りて行った。三日月は身を乗り出して地面を見る。
そこには和泉も立っていた。彼も三日月の視線に気づいたようで、小さく微笑んで手を振って来た。三日月も振り返す。
錬と和泉は数言話し合うと、ゆっくりとその場所から離れて行った。三日月はその姿が完全に見えなくなってから、窓の桟に顔を押し当てる。痕が頬や額に残っても構わない。
その場所で一人、蹲って声を殺して泣いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます