二. 陰謀

第漆話 黒猫と退魔師


『カナ、今日はレンと藤沢との仕事だけど、来る?』


 悠威にそう言われ、俺はすぐに頷いた。

 彼女が血に濡れた着物を着ていたあの日から、心のどこかでは彼女を心配していた。

 というか、架深が何となく昔の友達のいなかった頃の俺に似ているような気がして、側に居てやりたいと思ったのだ。

 俺が一人で居た時に、そうして貰いたかったように。


「にゃんこ?」

 架深の俺を呼ぶ声に、俺はハッと顔を上げる。

 今、俺達四人は『妖を見た』という人の情報から、すっかり寂れた三階建てのアパートへ来ていた。


 ここは、明治の頃に大日本帝國の政府から出された〈欧化政策〉により造られた、西洋造りのアパートで、部屋に置かれているものは殆どが外国から輸入してきたものばかりの、超高級アパートだと教わった。

 昔は金持ちが住んでいたらしいが、今じゃあ耐震性やら耐火性やらが備わった、帝都にもっと近い場所に高性能の高層ビルが建てられているから、ここに住んでいた金持ちは、全員がそちらへ移り住んだわけだ。そうして、ここは寂れていった。

 恐らく、前回のシャッター街もそういう風に寂れていったんだろうと思う。

 で、悠威と煉兎と架深は一階から三階まで手分けして探索する事になった。

 男二人は女にはちゃんと優しいようで、遠い二階と三階へ行き、架深と俺は一階を探索していた。

 流石、昔は金持ちが住んでいたアパートと言うべきか、部屋数は少ないものの一部屋ずつがとても広い。


「.....瘴気が、強い」

 気分が悪いのか、架深は口元を何度も押さえながら、ゆっくりと部屋の中を見回っていく。

 今居るのはリビングだ。埃っぽい空気も相まって、酷く空気が澱んでいる。

 大丈夫か、と訊ねるように鳴くと、「心配してくれてる?ありがと」と、架深は俺の首周りを、やはりぎこちない動きで撫でてくれた。

「大丈夫、問題ないから」

 架深はリビングをぐるりと一回りして、特に何も無いのを確認して、次に風呂場へ向かった。

「...んー、瘴気と妖の気配がぐるぐるとなって...、気配が読み取れない」

 苦々しい表情をして、架深は風呂場を覗く。

「.....何もいないね」

 乾いたタイル張りの床をコンッと軽く指で叩く。

 音に反応する妖も少なくないからだ。

「.....ここには無し」

 架深は玄関へ出て、扉にガムテープでバツ印を作る。


 次にその隣の扉へ──、調その前を通り過ぎた。

 あれ?

「........ん?」

 俺と同時に架深も気付き、驚いたように声を上げる。

 今目の前を通り過ぎたように、その扉の前へ向かうと、やはり『別にここはいいな』という気持ちになって行き、その扉から離れたくなる。

「ここ、怪しい...」

 架深はトントンと扉をノックする。

「.....んー」

 架深は悩むように首を捻り、それから腰から短剣を引き抜いて、短く息を吐くと刃に風が纏う。

 それを数回扉へぶつけると、扉は粉々に砕けた。

 少々手荒なやり方だが、ここに住んでいる人間はもういないわけだし、まぁ良いだろう。

 それにしても、何故この扉から目を離すように仕組まれていたのか。

 砕かれた扉をくぐると、バラバラに裂けた紙が埃だらけの床に散らばっており、その左側には地下へと続く階段があった。

 架深は埃を払いながら紙の破片を取り上げて、懐へと仕舞いこんだ。

 そして、顔を顰める。

「ここの埃は、さっきの部屋より綺麗な気がする」

 架深の言葉の通り、確かにあまり空気の澱みが無いような気がした。こんな場所で人の通りがあるというならば──、何やら嫌な予感がする。

「.....進もう」

 あぁ。

 俺と架深は階段を降りていく。


 カツンカツンと、架深のブーツの音だけが鳴り響く。

 今にも崩れそうな階段を降り終えると、狭く長い廊下が続いていた。

「...この場所、貰った地図には書いてなかったけど...。ああいう絡繰があったからなのか」

 架深は納得するように頷き、廊下に手を付きながら前へと進んで行く。










「.....見ぃつけたぁ」



 不意に聞こえてきたその声に、俺は後ろを振り返る。

 そこには、白い洋服に身を包んだ烏面の茶髪の女が立っていた。

 烏面で顔が見えていないはずなのに、ニヤリと笑うあの顔も、気怠げなその声も、纏う恐ろしい空気も、烏の仮面で隠されていない。滲み出ている。

「それにしてもわっちの手を煩わせるなんて、ようやるのぉ。でも、ここまでじゃ」

 俺は架深を見上げる。彼女は全く気付いていない。

 必死に俺は鳴いて、架深の注意を後ろへ向ける。俺の慌てぶりに架深は気付き、後ろを向いて目を丸くする。

「貴女は.....」

「すまんのぉ、童女わらわめぇ。その猫を...、穂積奏人を拾ったが故の、運命と知れ」

 架深はあの女を睨み付け、身体を固める事なく短剣を抜いて、すっと正眼に構える。

 女は嗤う。ケラケラ、ケラケラと。耳に付く笑い声で。

わっちに勝てると思うておるのかのぉ、童女わらわめ

 脅し文句に一切耳を貸さず、架深は俺を守るように一歩前へ身体を出した。

「.....ほぅ、退かぬか。ならまずはその片目を抉ってやろう。その次は、心の臓を抉ってやろうぞ」

 女は手の内に白く丸い球体を持ち、俺達の目の前へ投げた。

 あれが閃光玉だと気付き、架深へ伝えようとした瞬間、「がっ」と短い架深の声が聞こえた。


 視界が戻った時、床は赤い液体で染められていた。

「─────っ!??!」

 架深の肩に、彼女の使う短剣が深々と突き刺さっていた。彼女の口からは、声にもならない悲鳴が溢れ出す。

 俺は、金縛りに遭ったように少しも動けない。

「サングラスでもかけておくべきだったのぉ、運の無い童女わらわめだこと」

 女は藻掻く架深の黒い眼帯を奪い取った。


 そこには眼球は無く、ぽっかりと穴が空いており、穴の奥には毛細血管のグロテスクな赤が見えている。


 それを見て、女は嘲笑うかのように嗤った。そして、逆側の瞳へ手を置く。

「ひっ.....、いや、嫌だ.....っ!」

 初めて聞いた、架深の酷く怯えきった震え声。

 気が付くと、俺は女の片腕に噛み付いていた。

「はぁ...。其方はそこで見ておれ、弱虫」

 しかし、猫の姿では勝てなかった。首を掴まれて放り投げられる。


 やめろ、止めろよ。

 そいつは関係ないんだ!


「いや、止めて...っ!どうして、私は、」

「光を失え、童女わらわめよ」

 ぐちっぐちゃり、と耳を覆いたくなる水音が鳴る。

 架深の口から漏れるのは、くぐもった低い悲鳴。それは高らかに笑う女の声と混ざり合う。

紫水晶アメジストのような美しい瞳だのぉ、素敵じゃわぁ」

 あぁ、どうして.....。どうして...。

「どうしてぇ?其方が悪いんじゃよぉ?」

 気が付けば、俺の目の前にあの女は立っていた。

 その手には血に濡れた小さな紫の瞳が──、彼女の絵『ideal』に描かれていたあの眼球の片割れがその手の平にはあった。

「其方はどれだけ周りを不幸にすれば気が済むんじゃ?あの時の火災に巻き込まれておれば、あの時に其方が捕まっておれば、其方の纏う不幸はどこにも伝播せんというのに。何故、運命から逃げる?」

 俺は架深を見る。

 気絶しているのか、ピクリとも動かない。眼帯の付けられていない閉じられた右目からは、赤色の涙が流れていた。

「其方はぁ、生きておっては駄目だというのに.....。生きておるから.....」

 女は笑みを浮かべたままくるりと振り返り、架深の肩から短剣を抜いて、架深の左胸へ振りかぶって、














「........にゃんこ、大丈夫?」



 架深の声にハッとする。


 後ろを振り返っても誰も居らず、架深の顔を覗くと、きちんとその顔には紫の右目が存在していた。俺は床を歩いていたはずなのに、何故か架深の腕の中にいた。

 そして彼女の肩を見ようと顔をそちらへ向けた時。彼女の短剣にはゴキブリと芋虫を足したような、気持ち悪い虫が足をピクピクさせ、黒色の汁を出して刺さっていた。絶命している。

 俺の目線に気付いたのか、架深は短剣からそれを振るい落し、ブーツで踏み付けた。

「...これは幻影を見せる、怪蟲かいこっていう妖。私は自分の能力のお陰で助かったみたいで、でもにゃんこには掛かってたみたいだね、平気?」

 架深は心配そうに俺の顔を覗き込んだ。

 俺は大丈夫だ、とこくりと頷く。それを見て、架深は安心したように俺の頭を撫でる。

 そして、廊下をカツカツと足音を鳴らしながら進んで行く。

 彼女の腕に抱かれて、俺は先程の光景が脳裏にこびり付いていた。


 架深の声にもならない悲鳴。

 あの女の愉悦の顔、耳に残る嫌な笑い方。

 血に染められた床。


 どうしようもなく恐ろしくなって、気付かれないように架深の腕の中で俺は震えていた。

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