第弐話 黒猫と退魔絵師
「おい、起きろ」
朝。悠威の声で俺はゆるりと目を開ける。
あぁ、そうか。ここは...。
目を開けると、悠威が俺の顔を覗き込んでいた。
「朝飯、要るだろ。化け猫って何食うんだ?」
俺、玉ねぎは食えない。てか、嫌い。それ以外は基本食うぜ。
「基本何でも食えるんだな。そこは人間と同じか」
ふむふむ、悠威は俺の話を無視して納得するように頷き、冷蔵庫から五枚入った長方形のパンの袋を取り出した。
食パンか。
袋から二枚取り出し、パン切り用のギザギザの刃のパン切り包丁で、四等分にしていく。それで、計八枚の食パンが生み出された。
次に、卵を二つ割って、砂糖を入れてかき混ぜて、その中へパンを浸していく。浸している間にフライパンに油を落とし、温めている。
.....俺、何かした方がいいか?
「化け猫なら、人間に化けて何かしてろよ」
そう言われてもな、今の俺は人間になれねぇんだよ。
そう、どういう訳かは分かっているが、今の俺は人間の姿になれない。
関わっているのは、このペンダント。
「へぇ、そういう中途半端な感じだからカフカの力も効かないのかもな」
悠威は特に何も言及せず、さらりと流してくれた。
その優しさに俺は少しだけ感謝した。
そうこうしている内に、ふわりと甘い香りが鼻を撫でる。フライパンの中では黄金色に光る卵浸けパンが四枚も焼かれている。
「基本的に、俺はこういう香りの良いもんしか食わねぇんだよな」
匂いがねぇと本当に無味無臭で、食事がつまらねぇからさ。彼はなんでもないように言うが、きっと不便しているだろう。
昨日と同じ場所に俺達は座り、朝飯を食べた。
今日も仕事はあるのか?
「ま、あるぜ。寂れたシャッター街に妖が住んでいないかどうかの調査だけど」
ていうか、そもそも退魔師ってーのは何なんだ?
「あぁ、白銀の街には無い職だろうな。簡単に言えば、妖を祓う職さ。俺達みたいな異能を使う人間は、体内に
悠威は何でもない事のようにさらりと言うが、きっと数々の修羅場をくぐり抜けてきているのだろう。
何となく、彼の纏う雰囲気からそんな事を察する。
ひとしきり朝飯を食べ終わり、悠威は身支度を整えに、俺は用意されている水受けで舌を湿らせ、体を舐めて整える。
ふと、俺はその水面に映る黒猫に目を向けた。それから自分の首元で光る、様々な色が入り混じったような気持ち悪い色の石が付いたペンダントを睨む。
『あの時』が頭をよぎり、俺は慌てて首を振った。
今は力を付けるんだ。幸いにも、力が付けられそうな場所に所属している人間に拾われた。彼の動きを見て学べばいい。
そうして──、
「おい、カナ。〈霜花〉に行く前に藤沢を起こすから、少し早めに出るぞ」
昨日と似た格好に身を包んだ悠威に呼ばれ、俺はハッと水面の俺から目を反らす。
玄関前で、悠威は俺を肩へ乗せてくれるようでしゃがんでいた。
俺は勢いよく駆けて、彼の肩へ乗る。小さな声で重い、と聞こえた気もするが、まぁ、気にしない。
カフカの部屋は悠威の隣だ。猫は猫でも俺は化け猫。記憶力は人間と同じだ。きちんと覚えている。
悠威は合鍵を持っているようで、それを使ってカフカの部屋を開けた。
お前ら、付き合ってんの?
「仕事仲間だ」
からかうように問うてみたが、あっさりと一刀両断。
悠威がガチャリと扉を開けた瞬間。カフカの身体の匂いがした。
彼女の紫の目が輝いた時に匂うあの嫌な匂いじゃなく、恐らく彼女の体臭だろうと考えられる変な匂い。
それが扉を開けた瞬間、俺の鼻を襲った。
「また片付けてねぇな」
悠威は溜息混じりに頭を掻きながら、俺を床へ下ろした。
造りは恐らくというか、絶対に悠威の部屋と同じだろう。
靴を脱いでいる悠威を置いて、すたすたとリビングへ向かうと──、俺は足を止めてしまった。
足の踏み場が無い訳では無い、きちんと踏み場はある。
俺はそのリビングに広がっている光景に目を奪われていた。
部屋を埋め尽くしているのは、絵。一枚ではなく十数枚はあるだろう。全て風景画が床や壁を彩っている。
画材はきちんとまとめて置かれており、汚れているとは思わないが、それでも悠威の何も無い部屋との違いに──、何も喋らない絵画達に圧倒される。
疑問が解けた。
カフカの匂いは、絵の匂いだったのか。
キョロキョロと見回すと、黒色のペンを握ってソファで寝ているカフカを見つけた。
眠る彼女の顔の横にあるスケッチブックには──、しなやかな体付きをした黒猫が体を舐めている絵が描かれている。
これは.....。
「お前の絵だな」
いつの間に後ろに居たのか、悠威もこの絵を覗き込んでいた。
よっ、と声を出しながら悠威は立ち上がり、俺と同じように部屋を見渡した。
「凄いだろ、ここ」
悠威の言葉に俺は頷く。
「こいつの仕事なんだ、退魔絵師ってーんだよ」
それもまた初めて聞く職業だ。
悠威は俺が聞いた事無いだろうと思ったんだろう、説明してくれた。
「基本的な原理は寺の札やお守りなんかと同じだ。藤沢は絵の具に退魔の力を込められる。この絵を飾るだけで、大抵の妖百鬼は家に入れない。ま、勿論年を追う度に効力は弱まるけどな。そういう絵を提供するのが、退魔絵師─
無邪気にスースーと定期的な寝息を立てながら眠る架深へ、俺は視線を向ける。
「絵を描いてる時は凄いぜ?その分、普段は大分エネルギー量を抑えた生き方をしてるけど」
悠威はくくっと笑って、それから架深を揺り起こす。
揺すられて五回目くらいに、架深の目がゆるりと開かれる。ぼんやりした紫の目は、ぼうっと目の前にいた俺を見ている。
「.....にゃんこ」
あの低くて落ち着いた声で、俺をそう呼んだ。
俺は礼の意味と起きろという二重の意味を込めて、ぺろりとざらついた舌で頬を舐めてやる。
彼女はふふと笑って、身体を起こした。
「飯は?」
「〈霜花〉で食べる。歯磨きと顔洗いしてくる」
ふらっと覚束無い足取りで、彼女は洗面台へ向かって行った。
暇になった俺と悠威は、部屋に飾られている絵を見ていった。
森林の絵。湖の絵。ご飯と味噌汁と惣菜の置かれた机の絵。路地に咲く白い花の絵。
悠威もこんなにしっかり見るのは初めてらしく、俺と同じようにゆっくりと見ていた。
その中で、俺は一つの絵を見つけた。
今までの中では一番小さい、写真くらいの大きさ。その絵には、一つの目玉が描かれていた。
紫の瞳の、目玉が。
恐らく、架深が自分の目を見て描いた、彼女の左目だ。
ここにあるから、架深には目が無いんじゃねぇか。そう思えるくらいに、存在しているかのような錯覚を思わせる。
「.....絵、見てるの?」
平坦な声で、着替え終えたらしい架深がキッチン横に立っていた。
悠威はこの絵に気付いていたんだろうか、特にこれには何も言わず「行くか」と架深へ言った。
俺も歩いていくと、架深がちょいちょいと俺へ手招きする。来い、って言ってんだろうか。
架深の元へ歩くと、ひょいと抱き抱えられた。
「にゃんこ、飼い主さん探さないとね...」
俺の頬を撫でながら、架深はそう言った。
「おい、カナに手ぇ焼くのもいいが、前見て歩けよ」
「にゃんこに名前付けたの?それとも、元々?」
架深は手すりを使いながら、カンカンと錆びた階段を降りて、悠威の元へ足早に駆けた。
「そいつが教えてくれた。奏人って名前なんだと」
「じゃあ、飼い主が居るね.....」
俺が感じているだけかもしれねぇが、少し寂しそうに架深は言ってくれている気がした。
「いや、そいつは飼い主に苛められてて逃げて来たんだと。だから、俺の家で保護しようと思う」
悠威はさらりと嘘を言った。.....もしかしたら昨日の感じから、何かを察されているのかもしれない。
ちらりと見ると、パッと架深の横顔が輝いた気がした。
初めて見た時は無表情に近かったけど、思いの外コロコロと表情が変わるのかもしれない。
三分程テクテクと歩いて行くと、昨日の店へ辿り着いた。
昨日は、店の雰囲気から飲食店という大体の予想しかしていなかったけど、ここはどうやら喫茶店らしい。
喫茶店〈霜花〉の戸には【閉店中】の文字の書かれた看板がかかっているが、悠威は躊躇いなく開けた。
店内には昨日のトアと呼ばれている男が机を拭いていて、店主の金髪の男がカウンター席を整えていた。
トアは俺達を見て、パッと顔を光らせた。
「おはよ!悠威に架深に猫くん」
トアはニッと明るい笑顔を向けた。
「孝介、僕、ちょっと準備してくる!」
「おー」
トアはたたっと暖簾の方へ駆けて行った。
この店主はこうすけ、と言うらしい。
そう言えば悠威、この二人の名前、俺は知らないんだけど。
「あぁ、そうだな」
悠威は架深の腕の中にいた俺を抱き上げ、こうすけの元へ連れてった。
「...悠威、一応ここ飲食店だから、あんまり猫を掲げるのは」
「こいつ、お前の名前知らないから」
悠威の言葉に不思議そうに首を傾げたが、俺の事を化け猫だと思い出したのか、俺へ目線を向けた。
「俺は
ほぁー、凄ぇな。俺は感心する言葉しか口に出せない。
そこへ、身支度を整えたらしい叶亜が暖簾から出て来た。
「ごめんね、遅くなって。で、レンさんは?」
どうやら悠威の言っていた仕事は、悠威と架深、叶亜に加えてもう一人加わるらしい。
「集合時間五分前、そろそろ来る」
架深がぽつりとそう言うと同時に、チリンチリンと扉の開く音がして、そこに男が立っていた。
身長は叶亜と同じくらいか。悠威よりは低い。
飴色という言葉が似合うような薄茶髪の髪色に、檸檬のような黄色の瞳をしている。山吹色の着物に藍色の袴を着て、耳には右側に黒の、左側には白の十字架のイヤリングを付けていた。
数十年昔なら、
彼は三人の顔を見てから、俺を見た。そしてパッと瞳を光らせる。
「猫やん!」
「あー、レン好きだもんな、猫」
「どうしたん、この子。拾い猫?」
「いや、化け猫。ひょんなことから架深が拾ってきて、俺が預かってる」
ふむふむ、レンは納得するように頷き、そこで妙案を思い付いたように手を打った。
「俺が視たろうか?首輪とか落ち着いた態度から察するに、元飼い猫っぽいし」
俺が首を捻っていると、悠威がこしょっと耳打ちしてきた。
「こいつは
「つまり、君のお家を見つけられるかもしれん」
それは、困る。嫌だ、やめて欲しい。
俺はあそこへは帰りたくない。ここに居たい。
「.....レンさん、にゃんこは逃げて来た子なんだって。だから、やめてあげて」
まるで俺の感情が伝わったかのように、架深がスッと悠威と俺の目の前へ立ち、煉兎の目を見据えた。
「訳ありっちゅう事か。なら、余計な詮索は無しやね」
どうやら物分かりの良い人物らしい。助かった。
「で、名前は?」
「奏人って名前だってよ」
「へぇ...、人らしい名前なんやねぇ。まぁ、化け猫やからかな?」
煉兎はくすくすと笑って、俺の頭をわしゃわしゃと撫でた。乱雑だが心地よい。
「へー、カナトくん!素敵な名前だね」
叶亜はひょこっと横から顔を出して、俺をまじまじと見つめてくる。
「ほら、いいから仕事場に向かうぞ」
話が終わらないと思ったのか、悠威は溜息混じりに三人へそう言う。
「カナトくん、連れて行くの?」
叶亜は首を傾げて、悠威に訊ねた。
「そうだな...。カナ、置いていくか」
連れて行けよ!役立つかは分からねぇけど。
見知らぬ所で一人は寂しいんだよ!
「私が、肩に乗せとく」
悠威がそれへ返答するよりも早く、架深が名乗りを上げた。
「大丈夫、邪魔はしない」
「..........ま、そう言うなら」
悠威は、改めて架深の肩へ俺を乗っけた。
「じゃあ、向かうか」
「じゃ、行ってくるね孝介!」
「気を付けてな」
孝介は四人と俺へ手を振って、四人は仕事場であるシャッター街へと向かって行った。
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