一. 黒猫と退魔師

第壱話 黒猫と隻眼娘

 走れ、走れと。


 俺は四肢を使って、ひたすらに逃げていた。

 どこかも分からない、夜の路地を駆け巡る。


 ガス灯で朧気に照らされた、ほぼ暗闇の視界が悪い道なんだ。土地勘がそもそもない俺からすれば、どこを走っているのかなんて、さっぱりだ。


 俺は、ちらりと後ろを振り返った。

 後ろからは俺の二回りは大きいと思われる、赤眼の白鼠─妖の一種である旧鼠が未だに俺を追いかけていた。

 お前化け猫だろ鼠くらい噛み殺せ、と思うが、想像して欲しい。


 自分より二回り大きい動物が、殺気を放って全力で殺しに来る。


 .....怖い以外の何物でもない。


 その時、トンッと勢いよく前の何かにぶつかった。

 何だってんだ。前見とけよ。と言いたくても、そもそも俺が前を見ていなかった。


 俺が顔を上げると、そこには無表情で俺を見下ろす若い女が立っていた。

 京藤の着物に灰色の袴を着ている。男装でもしてんのか、この女。だが、それよりも目を引くのは、彼女の左目を覆い隠す黒の眼帯だ。酷く冷たい印象を受けた。

「...にゃんこ」

 低く落ち着いた声音で、俺の体を撫でた。

 チリッと傷が痛む。

 あぁ、そうだ。アイツに追われる前からの傷があった。逃げるのに必死で、全然考えていなかった。

 って、そうだ!アイツ...!


 俺が後ろを振り向くと、白鼠はもうすぐそこにまで迫っていた。

 ただの人間じゃあ、こんな化け物に殺されちまう。

 俺のせいでこの女が殺される...!

「........追いかけられてた、ふむ、成程」

 女はそうっと俺の体を抱き上げた。

 フワッと、俺の鼻先に掠めたのは奇妙な匂い。それに入り混じって、本能的に嫌な匂いがする。体がこの女から弾かれそうになるような、そんな感覚がする。


 って、おい、お前死ぬぞ!


「みゃあみゃあ、鳴かない。私は、貴方に危害は加えない」

 俺へ聞かせるように、ゆっくりと彼女は言葉を区切って言う。


 その時、この女の紫の瞳が淡く光ったように見えた。


 白鼠が勢いよく飛び上がり鋭く尖った歯を、彼女の白い肌へ突き立てようとした。けど、その体はバチンと音を立てて、吹き飛んでいった。

 なんだ、何がどうなってんだ?

「...効かない。私の身体は、貴方達を寄せ付けない」

 彼女は俺を抱き締めたまま、腰から短剣を引き抜いた。

「.....私は、退魔師。異能を持つ者」

 彼女の言葉を引き金に、短剣の刃に風が纏う。

 白鼠はその姿を見て、明らかに怯えた顔つきへと変わる。俺へ向けていた殺気はどこへやら。今のアイツは畏怖しかしていない。

『怖い怖い、あの娘は恐ろしい』

 白鼠の歯の合間から、怯えの声が聞こえる。

「...にゃんこ。そのまま居てね」

 彼女の言う通り、俺は着物の端を掴む。

 それを見て、彼女はトンッと地面を蹴って、白鼠の近くへその身体を運ぶ。人間とは思えない、あまりにも素早い動きで。

「ほいっ」

 白鼠の心臓を突き刺した。

 ゴポリと、アイツの黒い血液が零れた。

 ずっ、ずっ、と女は白鼠から短剣を抜いて血を払って鞘へ収める。

「.....にゃんこ、大丈夫?」

 いや、お前...、何者なんだよ。

 退魔師って言ってたけど、妖を殺すのが仕事って事か?

「...引っかかれた?にしては、多量の打撲傷。首輪、人に飼われている」

 俺の話を当然のように無視して、女は俺の首に付いているペンダントへ触れた。名前が書かれていないかと探っているようだが、そこには勿論、名前なんて書かれていない。

 だって、俺は...。

「傷、治してあげる。私が治すわけじゃないけど」

 すん、と鼻を鳴らすと、もう奇妙な匂いしかしなかった。でも、何故だろうか、妙に落ち着く。

「...寝てて、いいから」

 だいぶ疲れてたのかもしれねぇな。思えば、アイツから逃げる前も、ずっとビクビクしながら走ってただけだったなぁ。

 体が痛む。瞼が重い。眠たい。寝る。





 チリンチリン、と鈴の音の音が、俺の意識を目覚めさせた。

 ゆっくりと瞼を開けると、眩しい光が射し込んでくる。


 そこは、飲食店のようだった。

 近年西洋から輸入されまくっている丸テーブルと椅子が置かれて、カウンター席もある。内装もどこか温かみのある、昔ながらの文化にほんの少し西洋文化を足したような──、そんな感じだ。

 鼻につくのは、甘い匂い。菓子でも売ってるのかもしれねぇな。


 そして、この店には数人の客が居た。

「あ、カフカ。その猫、どうしたの?」

 ぴょこんと双葉のようになったアホ毛のある、この女と同年代に見える男が近寄って来た。

 この女、カフカってーのか。変な名前。

「妖に襲われてた。ゆーいに診て欲しい」

 アホ毛の男は碧玉のような瞳を俺へ向けて、怪我を診ている。

 こいつが、ゆーいなのか?

「...別に、トアに診て貰いたい訳じゃない」

 どうやら違ぇみたいだ。


 トアはヘラヘラと笑って、カウンター席に座っている鉄紺の着物に濃い紫の袴を着た男へ声を掛けた。

「あ?なに?」

 黒縁眼鏡の奥の緑の双眸を細めて、アホ毛男とカフカと俺を睨む。

 俺も人の事は言えねぇが、この男、相当ガラが悪い。

「........猫じゃん」

 でも、俺の姿を捉えるなり、急に声音が優しくなった気がする。

 目の前にある何かの入った液体を一口飲んでから、俺の下へ歩いてきた。

「........ふーん」

 男は的確に傷の箇所の周辺を触れ、傷の状態を確かめているみたいだ。

「......治る?」

「これくらいなら、治せる。さて、と」

 男はそこで言葉を切り、緑の目を微かに光らせた。

「お前....飼い猫?」

 違ぇ。仮にもあれが飼われている状態なら、動物愛護団体に訴えるぜ。

「へぇ、まぁ、一応は主人が居るんだな」

 .....不服だが。


 そこで俺は気付く。

 この男、俺の言葉を理解してくれている。


「俺は動物と話せるんだよ。お前は何者だ?」

 .....逃げて来た、化け猫だよ。

「て事は、飼い猫だな。それと、本当にお前化け猫なのか?」

 嘘なんて吐かねぇよ。特に、こっちは助けてもらってんだから、言うわけねぇじゃん。

「なら妙だ。おい、藤沢。いつもの使ってみろよ」

「...了解」

 ちら、とカフカの方を見ると、その紫の目はまた仄かに光を放っていた。すると、また嫌な匂いがし始める。体が弾かれそうな感覚。

 あの白鼠を彼女が倒した時にも嗅いだ、あの匂いだ。

「......普通の化け猫なら、藤沢の力で弾き飛ばされてるぞ。これの異能は妖を寄せ付けない力だからな」

「これ呼ばわりは、止めて」

 カフカはゆーいを睨んだ。ゆーいは「はいはい」と呆れたように溜息を吐き、彼女の手から俺を取る。

「部屋で診てやる」

「なら、帰る?」

「そうだな」

「お代は払って帰ってよ?」

 トアはニコッと微笑んでそう言うと、ゆーいは袖口から財布を取り出して、机の上へ置いた。

「あ、何?もう帰るのか?」

 その音を聞いたのか、店の奥の暖簾をくぐって、金髪の男が出て来た。この店の店主、だろうな。

「あぁ、明日にでもまた来る」

 ゆーいは彼へ気さくに声をかけた。店の常連、というやつだろうか。

 ゆーいはカフカの肩をトンと叩いて、店を後にした。


 ガス灯の灯った路地を、二人は歩く。

 家が同じなんだろうか。兄妹...にしては似てねぇけど。

 .....え、何、もしかしてこいつら同居、してんのか?見た感じ、年の差はそこまで開いてないとは思うけど。


 と、思ったら、木造で造られた二階建てのアパートへ二人は辿り着いた。

 二人はカンカンと音を鳴らしながら錆び付いた階段を上り、カフカは奥の部屋へ、ゆーいはその隣の部屋の扉を開けた。

「おやすみ、ゆーい」

「あぁ、やすみ」

「........にゃんこも、おやすみ」

 おぅ、おやすみ。

 俺が一鳴きすると、カフカはふわっと笑って部屋へ帰って行った。

「今日はここがお前の部屋だ」

 ゆーいはそう言って、自分の部屋を開けた。


 一人暮らしの男の部屋ってーのは、汚いものだと思っていたけど、こいつはそうでもなかった。

 小綺麗に整頓された、物の少ない部屋だ。

 まぁ、ただ絶対にこんな薬品棚は普通の人間の家にはないとは分かる。

「少し待ってろ」

 俺は床へ下ろされた。


 床はひんやりと冷たく、熱を持った傷のある俺には妙に心地よかった。

 外装はボロボロでヤバそうな感じしたけど、中は意外としっかりしているな、このアパート。

「骨は折れてんのか?」

 いや、折れてねぇ。

「そうか.....。じゃあ傷薬だけでいいな」

 ガタガタと薬棚を漁って、ゆーいは緑色の液体の入った薬を持って来た。

「染みるけど、我慢しとけよ」

 分かってる。

 ゆーいは俺の体へ傷薬を塗っていった。

 彼の言った通り、ピリピリと染みて思わず身をよじりそうになるが、何とか耐える。

「お前、どこに住んでたんだ?この街の奴じゃないだろ」

 分かるのか?

 俺が訊ねると、彼はにんまりと笑う。

「まぁ、な。この街じゃ異能なんて珍しいもんじゃねぇけど、やけにまじまじとカフカを見てたからな」

 お前の所じゃなかなか見れないんだろうな、とゆーいは付け足した。


 そう、この島国─大日本帝國には、明治初期に行なわれた版籍奉還後、主に四つの国のような形で分割され四都市が存在する。

 東はここ、紺鉄こんてつの街。四都市の中で最も西洋文化の色濃い場所という事と、奇妙な力を扱う人間が街中を悠々と歩いているという点が他とは異なる。

 西はあかがねの街。四都市の中で一番多く海に面していて、魚介類がよく採れる。紺鉄の街の次に栄えている場所だ。

 南は紺鼠こんねずの街。穏やかな気性の人間が多いらしい。陸地面積が一番広い分、果実や畜産が盛んに行なわれている。

 北は俺の居た、白銀しろがねの街。異能を持つ者は迫害され、よくて奴隷悪くて殺害のような、ほぼ鎖国状態の都市だ。ここも北の海から魚が収穫される。


 先述した通り、俺は白銀の街の出身だ。一年の内の三分の二が雪で埋め尽くされているような、そんな雪の街。

「へぇ。ここは雪が降っても、あんま積もらねぇからな」

 温かいからな。当然だろ。あと、お前そんな所に行ったら死ぬぞ。異能持ちなんだろ?

「まぁな。動物と話せる異能だ」

 俺の体に包帯を巻き終えて、ゆーいはふらりと立ち上がって冷蔵庫へ向かった。

「なんか食うか?あ、魚ソーセージあるわ」

 食う!

 初めて見聞きした『さかなそーせーじ』の元へ、つまりはゆーいの元へ駆けた。

「おいこら、邪魔だ」

 口が悪いものの、優しい物言いで俺をキッチンから追い出そうとする。その時、こいつの冷蔵庫のあまりの中身の無さに目を丸くした。

 ちらりと見上げると、俺が食べやすいようにカットしてくれてるゆーいが見える。

 確かにあの冷蔵庫の量の少なさなら、この細さは納得出来そうだ。貧乏人なのか、と疑念を抱くが、そうなら外食なんてしないか。

「ほら、食えよ」

 ことん、と皿が床の上へ置かれ、輪切りにされたピンク色の『さかなそーせーじ』をまじまじと眺める。

 ピンク色の食い物なんて、あいつが美味そうに飲んでた珍妙な飲み物しか知らねぇ。

 これ、食えるの?

「食えねぇもんは冷蔵庫の中に入れねぇ」

 ゲラゲラとゆーいは笑いながら、俺の皿の横にあるソファへ腰を下ろした。

 そいつの手の中にあるのは、白い泡の立つ、お茶...?

麦酒ビールだよ」

 あぁ、酒か。それ、苦くねぇの?

 俺の記憶が確かなら、初めてそんな代物を飲んだ時、あいつは「苦ぇ!」って言って吹き出して、その怒りを俺達へぶつけてたからな。相当不味い飲み物じゃねぇの?

「苦い.....か。さぁな。俺は味が分からねぇ」

 何だそれ、病気なのか?

 俺が首を傾げながら訊ねると、ゆーいはくくっと押し殺したような笑い声を上げた。

「白銀の街じゃあ異能の事、詳しくは知らねぇだろうなぁ」

 教えてやるよ、とゆーいは言ってくれた。


 天は二物を与えず。

 未知の力を得ているなら、既知の力は失わねばならない。

 それは異能を得ているなら、元々備わっている人間の力は捨てねばならないという事だ。


 ゆーいは、動物と話せる力を得ている代わりに、味覚が無いらしい。味は香りだけで理解してるんだと。

 食べている物はどれもこれも無味。ただ、辛さは痛覚に近いらしく、辛味だけは分かるのだという。


 そこで俺はカフカの事を思い出した。

 じゃあカフカもそうなのか?

「そうだな。妖を寄せ付けない力の代わりに、あいつには左目がない。視力的な意味じゃねぇぞ」

 眼帯で隠された瞳の奥は、何も無いぽっかりと空いた空洞なんだと思うと、何だか妙な気分だ。

 俺もそうだが人間も、二つの目が有って当然だと思っていたからだ。

「ま、その代わりにこうやって確実に手に職が付けられてんだから、良かったと思うしかねぇだろうな」

 ゆーいはそう言って杯をあおった。そして何かを思い出したかのように、パッと俺を見た。

「名前。聞いてなかったし、言ってなかったな」

 そう言えば、何にも言ってなかったな。今日一日だけで怒涛に色々遭ったから、言う暇無かったし。

 俺は恐る恐る『さかなそーせーじ』を食べた。うわ、凄い美味ぇ!

「そりゃあ良かった。それと、話を遮ってんじゃねぇよ。...俺は宇志川悠威うしがわゆういっていうんだ」

 へぇ、いい名前だな。


 ..........俺は、穂積奏人ほづみかなとってんだ。



「へぇ、化け猫らしくねぇ名前」


 くすくすと、悠威は笑って言った。

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