第6話 罪の林檎はルビー色

「俺はレオ。よろしくな」

 レオとクロが初めて会ったのは、彼が9歳の時だった。初めて会ったときのレオは今よりももっと痩せこけていて、今にも手で握り潰せてしまいそうな程に、頼りなかった事をクロは覚えている。

 クロは北地区の孤児院へ入れられた。父親に見捨てられた母親が、その父親に似ていたクロを捨てたのだ。また連れ子がいると、一緒に居る事の出来る男は限られてしまう為、...詰まるところの早い話はクロの存在が邪魔だったのだ。

 どんな地区でも孤児院という施設が危ないというのは、どんな子どもでも知っていることだった。衣食住の保証なんてされてない。暴力行為が絶えない。人身売買に出されるというのも珍しくはない。

 そんな噂のようなものをクロなりに知っていたから、ここに入った当初は不安で不安でたまらなかった。しかし、レオの笑顔を見た時、クロの心の中には安心感が芽生えたのだ。

「ここが俺らの部屋。で、横が風呂とトイレ。飯は少ないけど、足りなきゃ俺のやるから」

 レオの案内で、クロは部屋の中に招かれる。そこはなかなかに酷いところだった。

 狭い部屋で、1人の小さい男の子が蹲って寝ていた。かなり痩せていて、見ているのが辛い程ほっそりとしている。他には端の方に毛布が何枚か、机とペンがある。

 でも、ここが今日からクロの生活の場になる。

「ようこそ、とだけ言っとくわ」

 レオは眉を寄せて、少しだけ微笑んだ。


 朝起きていつの間にか昼になって、夕方に申し訳程度のご飯を貰う。そんな生活にクロも慣れ始めた頃、ある疑問がふつふつと湧いてきた。

 レオはどういう身の上でここへやって来たのだろうか、と。読み書きの出来るレオが少なくとも孤児ではなく、文字の分かる親がいた事は明白だ。が、彼は決して自らを語らないので全くクロはレオの事を知らなかった。

 その日は夜の、涼風の吹く日だった。

 暇だ、というのも勿論、理由の1つかもしれない。だがそれ以上に彼の事を知りたい、という心がある事を、クロは分かっていた。

 クロの視線の先、レオは机に向かっていつものように何かを記していた。簡単な文字しか読めない頭の悪いクロにとって、レオの書くものは、何となくしか分からなくて、読んでいない。

「...ねぇ。レオさんは、いつからここにいるの?」

「ん...?......そーやね。気づいたら、かな?あんま昔の記憶無いから」

「必要も無いしな」とレオは付け加えた。

 レオには過去の記憶がなかった。子ども時代があった事は確かだが、霧がかかっているように、思い出そうとしても何も思い出せない。懐かしむ思い出など、この孤児院の出来事しかないのだ。

 ここでの劣悪な生活にもなれ始めた頃。

 レオはペンを置いて立ち上がった。

「...そろそろ寝ろ」

「...レオさんは?」

「あー、俺はちょっと」

 レオは苦笑いを浮かべて、「いいから寝てろ」とだけ言い残して、行ってしまった。クロはレオがいなくなった事で少しだけ寂しくなり、クロはボロボロの部屋の壁にもたれかかる。

 うっすらと差してくる優しい月明かりが、クロの足に当たる。

「レオ兄ちゃん...、また行っちゃったんだ」

「...!レオさん、どこに行ってるのか知ってんの?」

「レオ兄ちゃん、ご飯のことお願いしてるの。皆が死なないようにって、頭下げてるの見たことある。で、いっつも殴られてね。『やめて』って皆言うんだけど、レオ兄ちゃん止めないの。『皆が食べられればいい』って。『俺は別にいいから』って」

 優しすぎる人は早く死ぬ。

 こんな薄汚れた街で暮らすオトナからそんな話を聞いたことがある。こんなドロドロした汚い世界で生き抜くには、必ずどこか汚れていないといけない、と。狡賢く狡猾な、人をすぐに切り捨てられるような、そんな人間がこの世界では長生き出来るのだ、と。それ以外の、つまり正義感だけで動く人間は、すぐ利用されて殺されるか、その優しさで自滅して死ぬ。

 嫌だ、とクロは思った。レオには死んで欲しくない。

 レオがここへ戻ってきたのは、月が大分上へ上った時だった。クロが起きていたのに驚いていたのか、レオは驚いて目を丸くしていた。レオの片頬は殴られたように赤く腫れてる。

「...どうしたのさ、その傷」

「ん...、何でも無いよ」

「何でも無い訳、ないだろ」

 何で隠すの?俺は信用ない?

 苛立ちの感情がグルグルと、クロの頭の中を蠢く。

「...しゃあないんだって。こういうやり方でしか、俺は皆を助けられへんから」

 頭を掻いて、彼は笑っている。

 その行動に、クロはまた無性にイライラしてしまう。

「...何で自分を犠牲にしてまで守ろうとするの?自分が死んだら意味無いし、レオさんも死にたくないでしょ?」

「そりゃそうやけど!...でもええんやって。皆が、お前が笑顔になれるならそれで」

 レオはニヤリと屈託なく笑う。

 それから部屋の隅に畳まれている毛布を取ってきて、床に敷いて、パンパンとその布団を叩いた。

「来い」

「え」

「一緒に寝よや」

「え、いや、でも」

「ええから」

 レオはグイッとクロの腕を引いて、毛布の中に無理矢理引き込んだ。トクン、トクンと。温かなレオの心音がクロの耳朶を打つ。

 何でだろう。凄い落ち着く。

 ポンポンと、レオがクロの頭を何度も優しく撫でる。

「大丈夫、安心しぃ」

 優しいレオの言葉が眠りへと誘う。心地いい感覚に満たされて、クロは眠りに落ちた。

 クロがここに来てから、しばらくたったある日の夜。レオはふと目を覚まして、起き上がる。スースーと、クロの寝息がレオの隣から聞こえてくる。

「よぅ寝とるなぁ」

 その寝顔はとても無邪気で、可愛らしい。最近はレオが書いてるものを読みたいからか、クロは昼間に文字を教えろ、とせがんでくる。

 最初は面倒臭いと思っていたが。文字を分かってた方がいいのは確かなので、レオは丁寧にクロに教えている。

 ゆっくり布団から抜け出し、部屋の外の縁側に出る。柔らかな月の金色に輝く光が差し込んで、このボロボロな部屋を照らしてる。

 今、この部屋にはレオとクロしかいない。一緒に居たもう1人の細い身体をした少年は、どこかへ連れていかれた。どこへかは知らない。オトナが教えてくれる訳では無い。けれど、確実に分かるのは売られたということ。

 涼やかな風が頬を撫でた。この施設の管理人である男に殴られた頬が痛む。ああやってレオが殴られに行くのにも理由はある。

 1つはこの施設にいる子ども達への飯の量を増やすためだ。この施設で餓死してしまう子どもが、レオにとっては一番痛々しく目に映ってしまうからだ。そしてもう1つは、管理人である男の机の上に置かれている資料を覗くためだ。その資料が多ければ誰かが取引されてしまう、早い話が人身売買が行なわれる予兆になる。少なければ、その可能性は少ない。それを確認する為だ。

 最近、また資料が増え始めた。

 俺はクロを守れるだろうか。レオはぼんやりと考える。

 あんなに慕ってくれる人間は初めてだった。いつも誰かに蔑まれて罵られて、いつの間にかここで過ごしてたから。だから、初めて慕ってくれた彼を守りたいと思うのだ。

 彼が、このまま無邪気な笑顔で居られるように。レオは静かに瞳を閉じて、涼風に吹かれていた。


「レオさんー、レオさーん?」

 ここに来てから1年経たないある春の日、クロはレオを探していた。朝起きたらいつも横にいるレオが、どこにも見当たらなかったからだ。

 偶然、クロはあの男のよく居る部屋の近くを通る。その時、彼の耳に会話が聞こえてきた。

「...そうだ。あぁ、明日明後日くらいに手配してくれ。そう、売る人間はレオという男だ。歳...?あー...11くらいか?まぁ、それはどうでもいいし、渡してから本人に聞けばいい」

 え...?アイツ...?

「アイツは元々珍しい人種だからな。売ったところで100から500は見込めるだろうな」

 ケラケラと、男の笑い声がクロの耳につく。頭は既にもう真っ白で、それでもやけに冷静に頭が動く。

 ナニヲ、ナニヲイッテルンダ、コノヒト...?

 分かってるくせに、とクロの心が囁く。

 レオさんが売られる?そうしたら、俺は、どうしたらいいんだよ。何で、何で俺から大切なもの奪うんだよ。何もかも!

 クロはギリッと歯を食いしばった。そしてバンっと音を立てて、扉を開けた

 男は突然入ってきたクロに驚いたが、何も言わずに眉を寄せた。暫く睨み合いが続き、重く男の口が開く。

「...聞いてたか」

「どういうことだよ。レオさんに、何をするつもりなんだよ!!」

 ニヤリと男はいやらしく笑った。子ども達の飯代を使って買っただろう貴金属類が男の身を彩る。

「聞いていたなら分かるだろう?検体がいるらしくてなぁ。あいつを渡せば金が入るし、補助も入る。あいつは誰かのために自分を犠牲にしたがる奴だからな。喜んで身を差し出すだろ?」

 こいつ.....っ!

 ぶんっ、と拳を作ってクロは男へと殴りかかる。だが、それはあっさりと受け止められて逆にクロの頬が殴られる。

 痛みが身体中を駆け回る。ジンジンと頬がする。この痛みをいつもレオは耐えてたのか、とクロは衝撃を受けた。

「ふんっ」

「...やめ、ろよ」

「あぁ?」

「俺からレオさんを奪うなっ!」

 もう一度クロは殴りかかって、殴られる。身体がその衝撃で倒れる。その時だった。

「クロっ!」

「レオさん...」

「...俺以外に手を出さんって約束でしたよね?...クロに触れんで下さい」

「...子どもは大人に黙って従ってりゃあいいんだよ。約束が何もかも守られると思ってんじゃねぇぞ」

 グッとレオは唇を噛んだ。その顔は悔しくて悔しくてたまらないといった感情を見せる。

「レオさん!レオさん逃げて!」

「...は?」

「こいつ、レオさんを売って、金をっ!」

「うるさいっ!」

 男に思い切り腹を蹴られる。一瞬意識が飛びそうになるが、何とか耐えてクロはレオへ視線を向ける。

 その時、クロは見逃さなかった。レオの白い手の内に黒い拳銃が握られていることに。

「...クロに、これ以上手を出さんで下さい」

 レオは肩を震わせながら、そう言った。

「うるせぇ。いいか?お前らはなぁ、俺の所有物なんだよ。俺がお前らを使ってどう生活しようが関係ないだろ?むしろそこら辺に転がって死んじまうようなお前らに価値を見出したこと、有難いと思って欲しいけどな」

 耳につく嫌な笑い声。クロは起き上がろうとするが、先程のダメージの為か上手く力が入らず立ち上がれない。

 その時、カチャリと音がした。クロが顔を上げると、レオが男へ黒光りする拳銃の銃口を向けていた。

「価値がないとか...、言わんでください。価値が無い人間なんていない、です」

「...撃つのか?いや撃てるのか?」

「撃たせんで欲しいです。もう、やめてください。手を、出さんで下さい」

「こういう風にか?」

 男に首元を掴まれ、クロの身体が浮く。そして男はそのままクロへ拳を振り上げて、


「やめろ!!」


 パンッ


 左側の胸部から血飛沫を噴き出しながら、男は左側へ倒れた。脱力した男の手からクロの身体は落ちて、その場に立ちすくむ。

「レオ...さん」

「.....あ...、俺.....」

 男は辛うじてまだ息はあるのか、指先がピクピクと動いている。だが、もう少ししたら動かなくなるだろう。それは素人目のクロでさえも、分かる事だった。

 何故なら、心臓のある箇所から血をダラダラと流している。

「レオさん...っ」

「...俺、人殺し」

 事の重大さに気付き、レオの身体がカタカタと震える。クロはレオへゆっくり近づいて、震える身体を温めるようにギュッと抱きしめた。

「あ...、クロ...、俺、俺は」

「レオさんは人殺しじゃないから!俺を助けてくれたから!」

 レオは身体をガタガタと震わせ、ポタポタとその琥珀の瞳から涙を零す。こんな弱いレオをクロは初めて見た。

 いつも、笑顔でクロを支え、助けてくれていたレオとはまるで違う。

「...クロぉ.....俺、どうしたら.......」

「大丈夫、大丈夫だから」

 俺がいるから。

 レオはクロを助けるために拳銃の引き金を引いた。だがもしあの拳銃が無かったら、クロは死んでいたのだ。そしてあの場にクロが居なければ、心優しいレオはその引き金を引くのを躊躇ったかもしれない。

 つまり、あの男を殺したのはレオさんでは無く、俺なんだ。だから、レオさんが罪を感じる必要は無い。クロはやけに冷静な頭でそう考えた。

 そこで問題なのは、クロがレオへその人殺しの罪を負わせてしまった事なのだ。人一倍優しいレオが責任を感じる必要は、本当は無い。

 ならばどうすべきなのか。クロは更に思考を巡らせ、ある答えを出した。

「レオさん...、ここから逃げよう」

「え...」

「大丈夫、俺達で生きていける。ここにいたらレオさん、捕まるし、連れてかれる。それは、嫌なんだ」

 クロはそっとレオの涙を拭って、その濡れた頬を両手で包む。そして彼を安心させるように、歯を見せてにっと笑う。

「俺がずっといるから」


「レオさん、まだ歩ける?」

「大丈夫」

 クロとレオは無事孤児院からすぐ抜け出し、2人で毎日をしのいでいた。何とか1日1食を食べていける、そんな生活だ。

 だがクロにとっては、孤児院にいた時よりも遥かに良い生活だと思えた。

「...クロ」

「ん?」

「クロは...さ。俺が怖くないんか?」

 ポツリと、レオが呟いた。

 ある日の橋の下、とても雨が酷く降ってうるさかった日だと、クロは今でも覚えてる。その雨音に掻き消されてしまうせいで、レオの声が小さくクロには聞こえてきていたのだから。

「怖くなんかない!」

 ギュッとクロはレオの両手を握る。

 確かにこの手があの男の命を奪ったかもしれない。でもそれは、無茶して勝手に突っ込んでったクロを助ける為だ。レオが責任を感じる罪じゃない。...とはいえ、簡単に人殺しに割り切れる理由にはならない。

 だから俺は、こうやってレオさんを助けて生きていたいんだ。

「本当だよ!怖くなんてない!レオさんは...、とっても優しいから」

「...クロが、いつか俺から離れるかと思ったから。 そう言ってくれて嬉しい」

 離れないよ。ずっと傍にいる。じゃないと護れないから。

 しかしそれは口約束にすぎない。これからの人生で、こんな言葉だけでは彼は不安になるかもしれない。どうしたら良いのか。

 クロはすぐ妙案を思いついた。

「レオさん、よく聞いて」

「?」

「俺の名前...、呪は、清川黒乃だよ」

「っ!? クロっ?! おまっ!」

 レオが目を瞬かせた。しかし、それは無理も無い。

 この国の古くからの慣習として、親から付けられた名前ともう一つ、その名前を隠す意味も込めて、名前とは別にあだ名を付けられる。そして、元の名前を守るべき呪とし、生きている内はこのあだ名を名乗ることになっている。

 この自分の名前、すなわち呪を教えていい人間は限られてる。名付けた家族と夫婦になるべき人物。そして、決して離れることのない友人。

 にっとクロは笑う。

「レオさんと、離れない証。...、んと、約束?の方かも」

「.........咲宮玲央。俺は呪とあだ名が同じなんや」

「っ! レオさ」

「俺も、お前から離れんもん」

 じっとレオの瞳がクロを見据える。そしてそれからすぐに、澄んだ琥珀の瞳がふわりと笑った。

 その時だった。

「ねぇ、君たち、寒くない?」

 突然声をかけられ、声の方を向く。そこには黒い傘を差した...、2人と同じくらいの年齢に見える茶色いコートを羽織った青年。髪の毛の左部分を濃い緑に染めており、優しげな碧の瞳を持っていた。その目が2人へ向く。

「こっちに来なよ。大丈夫、身ぐるみ剥いだりしないからさ!」

 これがシロヒとKとの出会い。

 そして、クロとレオが〈黄昏の夢〉へ所属する切欠だ。


 Kやシロヒに出会い"Knight Killers"になってから、3年後。

 クロは、自身の稼いだ金でピアスを買った。左耳に穴を開け、そっとピアスをはめる。

 それは彼の目の色と同じような、真っ赤なルビーのピアス。切屑を使ったものらしく、そこそこ安かったのでこれを買った。

 クロは静かに瞳を閉じ、そのルビーの宝石を触りながら、思う。

 これは誓いだ。レオさんを俺の命がある限り守り続けるっていう、俺の決意。

 ルビーの言葉に俺の想いをかけて。


 俺の罪。


 それは、貴方に罪をなすりつけたこと。


 それを無くすことはもう出来ないから。


 貴方が護ってくれたこの命を使って。


 貴方を守り続ける。


 それが、俺の出来る償いだ。

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