第三章 泡沫 -うたかた-
01
蒼はゆっくりと目を開けた。彼女の立っている場所は海の中だった。影流のいるあの暗闇の空間によく似ているが、ここには海藻や岩、貝や魚が悠々と泳いでいる。
「また...海の中」
そう、先程から扉の先は何かしら海に関わっている。もしかしたら蒼には水が関係しているのでは、と思った。それが正しいかどうかはさっぱり分からない。
「とりあえず...、どうしよう」
少し考えて、蒼はゆっくりと歩く事にした。
どれだけ身体が治っていると言っても、やはり先程の恐怖は脳裏にこびりついたままで、サメの大群が襲ってくるのでは、と辺りを慎重に見回して行く。
海の中は竜宮城へ向かう時と同じく、穏やかで美しかった。頭上を見ると水面が波紋を作り、それらがぶつかり合い、打ち消し合う儚い情景が見える。朝方か昼間のようで、太陽の光により"道"は明るく照らされている。
「ねぇっ!」
そこへ背後から愛らしい少女の声が聞こえてきた。後ろを振り向くと、肌を水流が撫で、目の前に赤毛に緑色の鱗の人魚が目の前にいた。蒼はあまりの衝撃に目を丸くしてしまう。
「え、なになになに?どうしたの?」
「あ、えと...、大丈夫。貴女こそ、私に用事?」
「うんっ!貴女、人間さんでしょ?」
「うん、そう」
「やっぱりっ!」
人魚は嬉しそうに笑い、近くで数回転泳ぐ。
「えと?」
「ねぇ、私に人間さんの世界を教えてっ!」
「えぇっ!?」
「ね、いいでしょ?お礼はするから」
人魚はギュッと蒼の手を握り、蒼の瞳をジッと見据える。蒼はその目の内に込められた情熱に根負けし、小さく頷いた。人魚の目が更にキラキラと輝く。
「ありがとうっ!貴女優しいのね。父様や姉様達とは大違いだわ」
「お、お姉さんがいるんだ」
「そうよっ!でも意地悪なの。私が人間の事を聞くでしょ?そうしたらはぐらかして答えてくれないのよ!ちょっと聞いただけなのにっ!」
本当に憤慨しているようで、口元を膨らませ腕を組む。見た目からすると蒼よりも年上であるだろうが、その言動は子どものそれと大して変わらないものだった。
そのギャップに蒼は少し口元を緩ませてしまう。それを人魚は見て、
「わ、笑わないで!」
「ご、ごめん。でも仕草が可愛くて」
蒼が弁解するようにそう言う。人魚はムスッと顔を膨らませていたのを止めて、再び蒼の手を握った。
「立って話すのも疲れるでしょ?あっちに私のお気に入りの場所があるの。こっちに来て」
人魚に手を引かれるまま、蒼は彼女の後ろをついていく。だんだんと珊瑚礁が増え始める。
「わぁ...っ!」
「綺麗でしょ?私、よくここに来るの」
更に進んで行くと、椅子にも似た形になっている岩があった。
「ささ、座って」
「ありがとう」
蒼が腰を下ろすと、人魚もその近くに腰を下ろした。
「ねぇ!聞いてもいい?どうして胸に貝を付けてないの?」
「えと...。この服で充分だからかな。貝だけだと、警察に捕まっちゃう」
「捕まる...?ケイサツ?」
「そこからか...」
蒼は人魚にせがまれるまま、自分の話をした。蒼自身、まだあまり記憶を取り戻せていないので、人間の常識のようなものを教えていく。
その話に人魚は目を丸くしたり、輝かせたりする。とても楽しそうだった。
「凄いっ!人間って凄いのね!」
完全に興奮した面持ちで、人魚は拍手する。そして、蒼の両手を握り、微笑む。
「私、貴女に会えてとっても良かった!ここに来てくれてありがとうっ!」
「私も」
「ねぇ、すっかり忘れてたんだけど、貴女、名前はなんて言うの?」
「蒼、よ」
「綺麗な名前...!」
「そ、そう?」
「私はね、レティアっていうの」
「レティア...。素敵な響きだね」
2人で笑い合い、レティアはそこでハッと気づく。
「そう、お礼の品を渡すんだった!」
レティアは「ちょっと待ってて」と蒼に言い、どこかへと泳いでいった。少しして、手にあの白い光の入った小瓶を持って、レティアが戻って来た。
「これ、あげる。どうすればいいのか分からないし、これ蒼にあげるわ」
蒼はそれを受け取り、少し躊躇ったが小瓶の蓋を開ける。
蒼の視界が真っ白に染まった。
「島浦。俺、お前が好きだ」
夕暮れの教室。幼少の蒼の目の前には顔を真っ赤にした少年が立っていた。2人共真新しい学生服を着ているので、中学生になりたてくらいだろうか。
「え...」
「な、なんだよ、その顔っ!悪いかよっ!」
少年は耳まで赤くして、噛み付くように蒼にそう言う。蒼はゆっくり首を振った。
「ご、ごめん。びっくりしちゃったから...」
「...今日くらいしか言う時ないと思ったから。悪いな」
少年は口を尖らせてそう言い、机の上に置いていた鞄をひったくる様に取り、教室のドアへと駆けた。教室の扉をバンッと開け、そこで蒼の方に振り返った。
「返事...、いつでもいいから」
少年はそう言って逃げるように教室から出て行った。蒼はポカンと口を開けて目を丸くする。そこへ、
「あ、蒼ちゃん。...ま、待たせちゃった?」
鞄を背負った藍が教室へ入って来た。
「いや...。先生の話長くなかったじゃん」
「あんまり蒼ちゃん、待たせたく無かったから」
藍は曖昧にはにかんで蒼に近付く。そして、少し首を傾げて、
「一緒に帰ろ」
「うん」
蒼は机の上に置いていた鞄を手に取り、藍と共に教室を出た。
「中学生になって、10月半ば。先生との話があるって藍が遅くなってて、私は教室で待ってた。テスト週間だけは一緒に帰ろうって、約束してたから。そこで待ってたらクラスメイトの男の子が私に......、告白してきた。私はとっても驚いたな。確かに話した事はあるけれど、でもそれ以上でもそれ以下でもなくて。でも良い人そうだったし、初めて告白された事も踏まえて、私は「友達から」って返事したの」
蒼の意識はこちらへと戻って来た。
「...蒼?」
「あ...、えと、何?」
「ぼーっとしてたよ、大丈夫?やっぱり人間は海じゃなくて外にいた方がいいんじゃない?」
レティアが心配そうに蒼の顔を覗く。蒼は首を振り、
「平気だよ」
と、レティアを不安がらせないように言う。
「...ねぇ、蒼」
「何?」
「私の頼み事もう1つ聞いてくれる?」
「......私に出来る事なら」
「ありがとうっ!あのね、陸にいる姉様に渡して欲しい物があるの」
「陸に...って。レティアは人魚でしょ?陸にお姉さんがいるの?」
「うん。私と同じで"外の世界"に憧れて、この海に住んでた魔女に、声と引き換えに足を貰って、人間の王子様と結婚したお姉様が1人、ね」
「へぇ」
それは昔から語られている人魚姫の物語によく似ていた。この世界のモチーフは人魚姫らしい。
「でね!私、この間その魔女が住んでた場所から姉様の声を見つけたの。これを浜辺近くのお城で暮らしてる姉様に届けてきてくれない?」
コトリ、とレティアは蒼の目の前に小指程の大きさの、小さな小さな小瓶を置いた。中には桃色の液体が入っており、ゆらりゆらゆらと水面が揺れている。
「...分かった」
「ありがとう!蒼は本当に優しいのね」
「そんなこと無いよ」
少しベタ褒めされる事が恥ずかしくなり、そう言う。
「いいえっ、蒼は優しい子っ!...あ、そう!姉様は私と同じ赤毛で、綺麗な青目をしてるわ。よろしく頼むわね」
「うん」
蒼は小瓶を大切にポケットへ入れ、レティアに別れの言葉を言ってから、浜辺の方へ歩いていた。
本来なら水中の中で水中かどうかは、地面が坂のようになっていた為、すぐに浜の方向で当たっている。蒼が数歩程歩いたときだった。
「がっ...」
レティアの呻き声が蒼の耳に飛び込んで来た。
蒼の心臓がドクリ、と大きく脈打つ。大量に出てき始めた生唾を飲み込み、嫌な予感を噛み殺すように奥歯をグッと噛み締める。ぞわぞわと肌が粟立っていくのが分かる。振り向かない方が良いと、心は警告するのだが、その意に反して蒼は背後を見た。
レティアの瞳は大きく見開かれていた。口からは赤い液体が零れ、腹部を黒い触手が貫いており、そこから海水へ赤い液体が溶けていっているのが分かる。その周りは鋭く突かれた際に飛び出したのだろう、どす黒い色をした内蔵が幾つか浮いていた。ゆっくりと黒い触手が抜かれていく。その度に赤い液体はレティアの周りを取り巻く海水を赤く染めていく。全てが抜かれ、支えていたものを失った彼女の身体は、静かに岩の上に落ちた。
「あ.........あ.........」
先程まで楽しく話していた人間の突然の死に、蒼は完全に身体を硬直させてしまった。ズルズルと黒い触手が蒼に向かって、その手を伸ばしていく。それに気付いた蒼はハッとし、弾かれるように浜辺へと走る。
息を切らしつつも、全速力で逃げる。横目でチラリと見ると、まだ触手は追ってきていた。そこまで素早いというわけでは無いが、少しでも気を抜いてスピードを緩めてしまえば、レティアと同様の死に方をするだろう。それは嫌だ、と蒼は腕を振り、懸命に走る。
そして、浜辺へと逃げついた。
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