02

 変わらない浜の景色に目を向けながら、ペタペタと蒼は歩く。先程の小亀のいた竜宮城の世界よりも、この海は荒々しい。荒波の中で凶暴そうなサメが泳いでいる。恐ろしい海だ。

「うぇーん、うぇーん」

 その時、遠くの浜辺から泣き声が聞こえた。蒼はその方向へ歩く。

「っ.........!?」

 そこにいたのは、体中を真っ赤な血で染め上げ、蹲っている兎だった。白く美しい毛皮は見当たらず、兎のいる砂だけが赤黒くなっている。このような状態でも生きて泣いている方が不思議だ。

 蒼はあまりの衝撃に近付く事が出来なかった。吐き気を噛み殺し、震える声で兎へ声をかける。

「だ、......大丈夫?」

「あぁ!人の声っ!」

 兎は首をもたげて蒼のいる方向へ向く。だが、きちんと蒼の顔は見ていない。見えていないのだろう。

「ごめんね、ボクの血が目に入ってて、今君の顔は見えないんだ。...ねぇ、君。毛皮を生やす方法知らないかい?」

「......知らないの、ごめん」

「そっかぁ...」

「っで、でも!怪我を治す薬ならあるっ!」

 蒼は近くの海水を小瓶へ入れる。すると、小瓶の中に入った透明な海水が深緑色へと変化した。

 ポケットから小亀に使わなかったガーゼの残りを何重にも折りたたんで、液体を染み込ませて兎の体を拭く。

 生臭い血の匂いが薬の匂いと混ざり合い、胸中に気持ち悪さが広がっていく。何重にも重ねたはずのガーゼも赤くなってしまった。

「あぁ、ありがとう。痛みが引くよ」

 赤かった体は蒼が拭い取ったせいで、ピンク色の素肌が露わになる。そこには傷跡は一切見られない。

「良かったね」

「...もう全く。ちょっとサメの体を借りてこっちに来たのを少しおどけてサメに言ったら、革を剥がれたんだ。酷いと思わないかい?ボクが利用してるのに気付かない方が悪いだろ?」

「...そう、かな」

「そうだよ!」

 兎は胸を反らしてそう言った。どうやら自分のした事は悪い事では無いと思っているらしい。

「あぁ、そうだ。ボクはそろそろ行かなくちゃ...。会わなきゃいけない人がいるんだった」

 人。その単語に蒼は目を丸くして訊ねる。

「人が...いるの?」

「え?うん、そうだよ。ここいらで1番優しくて気遣いの出来る、とっても大きな人さ」

「おーい、兎くん!」

「噂をすれば何とやら。こちらですー!」

 兎はピョンピョンと体を飛び跳ねさせ、野太い男性の声の主を呼ぶ。蒼が後ろを振り返ると、そこにはかなりの巨漢を揺らして歩いてくる、サンタクロースが持ち運ぶような白い袋を手にしている男がいた。

 それを見た瞬間、蒼は理解する。因幡(いなば)の白兎の童話を模した世界に、蒼は来ているのだ。

「あの人が......大国主様」

「あれ?なんだ、知ってるじゃんか。訊いてくるって事は知らないんだと思ってた」

「兎くん、そちらのお嬢さんは?」

「ボクの怪我の痛みを消してくれた人だよ」

「そうなのか!...またサメを馬鹿にしたんだね?あれ程駄目だと言っているだろう。今度の怪我は治さないよ?」

「はーい」

 どうやらこの白兎、1度や2度では無くサメに毛皮を剥がされているらしい。

「いずれにせよ、私の友人を助けてくれてありがとう」

「い、いえ...。毛皮は生やせてないですし」

「いやいや、普通なら何もせずに去っていくよ。私の兄たちもそうだった」

 大国主神は少し悲しそうに目を伏せたが、すぐに目を細めて、白い袋を地面へ下ろした。

「友人を助けてくれた御礼には小さいかもしれないが、女性は美しく華やかな物を好むという。私が最近見つけたこの、白銀の小瓶を差し上げよう」

「えっ!?」

「遠慮はいらない、受け取ってくれ」

 大国主神は袋から小瓶を取り出し、蒼の手に握らせる。

「あ、ありがとうございます」

 蒼は小さく首肯して、小瓶の蓋に触れ、ゆっくりと開けた。

 視界が白く染まっていく。





「えっ!?演劇部に入るのっ!?」

「う、うん」

 青いベットに腰掛けていた幼い蒼は、隣で衝撃的な言葉を吐いた藍の顔を、思わず二度見した。藍の決心は硬いらしく、彼女は静かに頷いた。

「どうして演劇部に?」

「...蒼ちゃんみたいになりたいから」

「私?」

 蒼が聞き返したのを、藍はこくこくと頷く。

「私...、蒼ちゃんみたいに格好よくなりたいの。皆の前で泣かないように、蒼ちゃんの手を借りなくても大丈夫なくらい...。私、強くなりたいの」

「そ、...そっか!な、何か照れるよ...」

「...だから、蒼ちゃんと中学生になったら、一緒に帰れなくなるね」

「あー...そっか」

 蒼は少し顔を俯かせる。藍も同じように俯く。だが、蒼はすぐに顔を上げて、

「...で、でも。テスト期間中とかは一緒に帰れるから、それが楽しみになるねっ!」

「っ!......うん、そうだね」

「あー、私早く藍の演技見たいなぁ!きっと凄く大変だと思うけど、いつでも私を頼っていいからね」

「ありがとう、蒼ちゃん」

 藍は蒼の手を握り、口角を上げて笑った。蒼も微笑み返す。





「...そう、小6の時、卒業してから体験入学した日の夜だ。私は忙しい両親だから家の手伝いの為に部活には入らなかった。でも藍は、中学生には珍しい演劇部に入った。毎日6時過ぎに帰ってきてたっけ。大変そうだったけど、楽しそうだった。2人で帰れる時間は少なくなった。お互いが新しく出来た友達と一緒に帰り始めたのも、この頃だった」

 蒼はこちらの世界へ戻って来た。

「あの、本当にありが、」

 その時だった。突如大きな荒波が浜に打ち寄せ、蒼の身体を海へ連れ去る。蒼は懸命に手を伸ばし、岩にしがみつこうとしたが、その手は滑り波へ呑まれる。

「はっ、げほっ」

 水面から顔を出し、いた岸辺に泳いで戻ろうとする。その行く手をキラキラとした小さな黒い瞳を持つ青肌のサメが阻む。蒼はサメのその目に背筋を震わせ、視線を逸した。それと同時にサメが蒼に襲い掛かり、右腕に鋭い歯を突き刺した。蒼の腕から赤い鮮血が噴く。その血の匂いで仲間のサメがわらわらと集まり、右足や肩、腹にかじりついていく。壮絶な痛みが身体を貫くか、頭が身体の神経を麻痺させて痛みを誤魔化ごまかす。

 徐々に意識が消え、目の前が真っ暗になった。

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