畳上の公差

坂水

〈上〉

 公差こうさという概念がある。

 一般に、機械加工の工作品で、許容される誤差の最大寸法と最小寸法の差をいう。

 例えば図面に長さ寸法30±0.05と記されていれば、29.95mmから30.05mmの間でなくてはならないし、逆に言えば29.95mmから30.05mmの間ならば良い。その公差――±0.05mm内に収まっていれば、最大0.1㎜の誤差があっても用を為す。

 そして当然、公差内に収まっていなければ、苦労して造り上げた品もおしゃかとなる。

 いっそ許容などなく、公差はゼロのほうが良いのかと言えばそれも違う。確かに品の精度は上がるが、加工工数が増え、不良品が増え、コストが上がり、生産性が悪くなってしまうから。芸術品や宝飾品ではないのだ。

 図面には意図があり、その設計意図に対して許容される範囲指示、それが公差なのだ。

 だから、図面を読み違え、あるいは技術不足で公差から外れてしまったなら。

 ちっぽけな部品一つに拘らず、おしゃかにしてしまったほうが、よほど、時間もコストも感情も無駄にしないはずだった。


 週末の夕暮れ時、㈱サハラ技術工業の事務所内は活気に満ち、喧しく、人いきれに満ちている。

「図面コピー取ってきて、A3縮小、2番ブースに急いで!」

「あの梱包やったの誰だよ、養生テープ巻き過ぎ、最小最速最美でやれ、素人かよ」

「山重のA-101の60個、どこ配送したの、南倉庫と北倉庫間違えてない?」

 日本の誰もが知る重工業メーカーの航空部門との取引を主とする会社だ。この地方は航空宇宙産業の特区に指定されており、港に面した工場・倉庫群も近く、仕事は絶えず、忙しく、終わらない。

「いや、それは承知してるよ。うんそう、だけどお宅の技術力に縋るしかなくて。今度あの銘酒手配しときますから」

 打ち合わせブースから出てきて、さらに別の打ち合わせを携帯電話で進め、その通話を切ったばかりの宮路さんに、この隙とばかりに図面を振って合図した。

 長い足でおおよそ五歩、宮路さんは私のデスクへと辿り着く。

 図面は、三十分程前に銀行から戻ったおりに置かれていたもので、工番と納期と「至急!」の文字が躍るピンクの付箋が貼られていた。社内には余裕が無く、外注しろの意だ。

「これ、随分と精度高いですけど、どこ振り出します?」

「旭工業でいいんじゃない?」

「あすこにはおとつい超特急のN-20、N-21、N-23無理矢理引き受けさせたじゃないですか。今、他の案件ぶちこもうものなら殺されますよ」

「あー、そうだったっけ。アマクサプロダクツは?」

「先週おしゃか出したばかりですから、この案件はちょっと怖いですね」

 まじかー、と宮路さんは呻く。次々と付き合いのある業者を挙げるけれど、どこも手一杯だ。主にうちが発注した案件で。しかし時間は有限、納期は絶対、なんとしてでも今週中に依頼と打ち合わせまでは漕ぎ着かねばならない。

「・・・・・・タカギはどうですか?」

 私は少し間を置いてからからその名を口に上らせた。

 タカギ、宮路さんは呟き、視線を宙に巡らせ、胸ポケットの煙草に手を伸ばしかけて、下ろした。タカギはなあ、と漏らして。

「腕は良いけど、今人手不足だろ。今回は発注数多いから、難しいと思う。もう少し体力あるとこにしよう」

 富山工機なら恩を売ってあるからいけるかも、宮路さんは携帯電話を操作した。運良くというか、本当に恩があるからか、すぐに担当者が出たようで、滑舌良く話し出す。その様子は技術者エンジニアというよりもよほど営業マンじみていた。

 まあ、そこそこの規模であるとはいえ地方の一中小企業である当社では、誰もが職種の垣根など蹴倒している。かくいう私も事務職で入り五年目だが、製品検査も打ち合わせも簡単なものなら図面制作もやり、その上でおつかいお茶出しなどの雑務をこなしていた。

 電話を切ると宮路さんは私に向き直り指示を出す。

「取り急ぎ、富田工機の矢部さんに図面のデータと発注書送っといて。原本は打ち合わせがてら届けるから。あと工程表作って、品証と組み付け班にも共有させて、配送トラックの手配、工数も出しといて。それから週末はどうする?」

 指示の続きで問い掛けられ、私は発注書を打ち出しかけた指を止めた。見上げれば、宮地さんは不自然なほどにそっぽを向いていた。LED照明の元、少し赤らんだ顔色で。

 苦笑を含んで、家の片付けをするからと答えると、彼は甘いのかしょっぱいのか、非常に複雑な表情を浮かべた。

 私は近く実家を出る予定だった。将来を考えた恋人と暮らすために。先週終わった連休中にあらかた荷物をまとめるつもりが、急な出勤となり手を付けられなかった。予定は全て押し出しとなり、明日の映画はお預けだ。でも翌週末の誕生日は一緒に過ごす予定だから。

 デスクにふらりと置かれた彼の手の甲をとんとん軽く叩く。これくらいの接触ならば、会社の許容範囲――すなわち公差内だろう。

 実際、骨張った標本のような手は、接触を待っていてくれた。なんとも愛おしいことに。グッドボーイ、グッドボーイと撫でる心地で指の一本一本をなぞる。絡めるまではしないけれど。

 そして宮路さんの社用携帯とデスクの外線電話が同時に鳴って。定時までの残り二時間、我が君、我が技術主任の指示を消化すべく、私は業務に没頭した。


 ヒールのかかとをコツコツ、ビニル袋をガサガサ鳴らして、民家が立ち並ぶ狭い通りをズンズン歩く。この古くからの家並みが残る住宅地は外灯が少ない。〝チカンあらわる、女性危険!〟――意味はわかるけれど文法としてやや難がある立て看板が電柱に括りつけられていた。

 自家用車通勤だが、月極駐車場から徒歩一分。文句を言うほどではないけれど、嘆息は自ずと出てしまう、そんな距離。自宅まであと二十メートルというところで、私は足を止めた。

 時刻は夜の九時前。結局、残業は免れなかった。スーパーに寄り道したせいもある。だが、明日の休みは死守できたのだから、まあ及第点だろう。

 昼間は暑いぐらいだったが、五月下旬の夜風はさらり乾いていて快い。花のような甘い匂いもふわり漂っていた。四月の桜の盛りよりもなお、ひそやかに濃く。

 止めた足の右手の家屋には〝高田日本中央技研〟と墨で縦書きに書かれた古めかしい木板の看板が掲げてある。文字が読み取れるのはまだ屋内に煌々と明かりが灯っているから。

 看板以外は一見して昭和風情香る民家にしか見えないその家の引き戸を、私はスーパーの袋を提げた手で開けた。

 中はさすがに一見して普通の民家とは違っており、機械油の匂いが漂っていた。入って右手には階段があり住居へと繋がっているが、左手は事務所兼工場こうばとなっている。緑色のリノリウムが貼られた床にはデスクや作業台や測定器が置かれ、ところ狭しと設置された棚には図面ファイル、部品カタログ、ヘルメット、安全靴、種々の工具が雑多なようでなんらかの秩序に従い並んでいるのだった。

 工場を見回しても人影は無い。ただ機械の低い唸り声だけが響いている。

 花崗岩製の定盤の上にショルダーバックとスーパーの袋を無造作に置く。そして袋から買ったばかりの商品を一つ選び出し、工場の奥へと進んだ。

 目当ての人物は工場の一番奥まったマシニングセンタの前でひどく真剣な面持ちをしていた。

 マシニングセンタはクレーン車の運転席部分だけを巨人の手ががぱり外したような機械で、コンピュータ制御装置で自動的に切削や穴あけやねじ山をつくるなどの異種加工を行う。つまりプログラムは事前に済んでいるはずで、本来ならばそう心配そうに覗き込む必要はないはずだった。

 本来ではない不具合、つまりは故障でもあったのかもしれない。保証に入っているとはいえど、修理となれば金も時間も余計にかかる。時間かがかかれば納期に間に合わない。請け負った仕事も、これからの受注も水泡に帰す。

 だからこそ見極めようとしているのだろう。

 緊急の用件でなければ考え中の技術者に声をかけるべきではない。それは私が就職して学んだ最重要事項の一つだった。

 けれどここは私にとっては職場ではなく、幼少時分からの遊び場に過ぎない。ましてや、相手は、保育園前から一緒の。

 ふいに、この男が否が応でも振り向かざるを得ない一言を投げつけてやろうかと思いつく。通り魔的犯行、八つ当たり、むしゃくしゃしてたから。脳内でテロップが踊り、妄想に唆されそうになるが、ぐっと堪えた。図面と違ってしまう。公差を外れる。完納できない。今は、まだ。

 代打として吐き出されたのは、ゆるい嫌みだった。

「清太、今日も順調に残業?」

 灰色に青いラインが入った作業着姿の男がちらりと視線を向けてくる。本当に一瞬だけ、なおざりに、そのくせ、殺すぞ、という怒気を孕んで。

 その煮えたぎる殺意を受け流し、飲まない? と早くも汗を掻き始めた缶ビールを掲げる。清太はマシニングセンタに視線を戻してから首を横に振った。仕事中だから、と。

 ふうん、私は気抜けた声を上げ、手近な作業机に腰掛け、プルトップに爪をかけた。プシュ、と小気味良い音が鳴り、遠慮も躊躇も恥じらいもなく黄金の液体を喉へと流し込む。くぴり、くぴり、くぴりと音を立てて。

 清太は見向きもしない。ここで物欲しそうな顔でもしたなら可愛げ気があるものを。脳裏に宮路さんの手が甦った。愛撫を待つ、素直な指先。ついでに真夜中にそそり立った犬の尾も。

 アルコールはあまり強くない。早くも顔がほてり、レースブラウスの胸元の釦を外しつつ言う。

「大変だねー、人手不足」

 こちらの投げかけに、今度は反応すらしない。でも聞き逃さないと確信して。

「清太、あんた仕事逃したよ」

「……意味がわからん」

 さすがに流せなかったのか、マシニングセンタの油汚れをウエスで拭きながら聞き返してくる。相変わらずこちらを見ようともしないけれど。

「今日、ウチの会社に山根重工から急ぎの発注があったの。精度高かったから〝高田日本中央技研タカギ〟に振ったらって言ったんだけど、今は大変だろうからやめておこうって」

 清太はようようこちらを向く。

「トコさん、辞めなきゃ良かったのにね」

 ね、部長。ね、ね、ねー、と続ければ、憎悪の眼差しが返され、私は缶ビールをかざして受け止めた。

 トコさん――所田さんは、長年、ここ高田日本中央技研に勤めていた腕の良い金属加工職人で、大手自動車メーカーからご指名でゲージやコレットなどの加工治具の発注が入ることもしばしばあった。けれど近年手の震えがひどくなり、そういった高い技術を要する仕事が難しくなっていた。

 高田日本中央技研――大層な名前だが、すなわち小さな町工場だ――の業務は多様で、職人の手業からCAD設計、現場組み付け、現場監督、雑用まで無数にある。けれどトコさんはパソコンを扱えず、雑用は嫌がり、今時の若手への指導にも向いていなかった。そして高田日本中央技研には、何もしない社員を置いておける余裕はなく、幾度か話し合いがなされ、結果、プライドをいたく傷つけられたトコさんは三十年勤めていたタカギを去った。話し合いの相手は経営企画部長兼人事部長兼総務部長、つまりは清太だった。

「トコさん、何してるかな。家族いないんだっけ。お酒好きだったから、毎日飲んでるかも」

 清太にとって、トコさんは大先輩であり、師であり、実の祖父同様の存在であったのは疑いない。その情を踏み抜く心地でいとも無神経に。

「おまえ、よくうちに来れるのな」

 清太はキャップを深く被り直しながら呟いた。呆れるようでも、蔑むようでもあり、その表情を確認したかったけれど、目元が隠されてしまって少し残念な気持ちになる。

「社長はいつでも来いって言ってくれてるよ。昔っから。サハラ辞めたら雇ってやるって」

「中途採用は今やってない。親父に会いたきゃ、昼間来い」

 清太は再びマシニングセンタに向き直る。こちらに完全に背を向け、もう話しかけるなと無言で語って。

 子どもの頃から、よく見知った背中のはずだった。けれど二十代後半となった背は子どものそれとは異質だ。重い加工品を運んだり、組み付け作業を行ったり、現場指揮を執るからだろう。広く分厚い肩、丘陵を描く筋肉、引き締まった体躯。この背中に抱きついたなら。

 清太に今、特定の彼女はいない。いるはずもない。高田日本中央技研の次期社長には今、女にうつつを抜かす余裕はないはずだった。出会う異性は家族以外にヤクルトレディ、パートの村上さん、あと出入り業者ぐらい。出入り業者は少し厄介かもしれない。若い女がおつかいに出されることがままあるから。

「おふくろ気付いてるぞ」

「え?」

「お前が夜来てるの。コツコツ響くんだよ」

 虚を突かれた。こちらの邪な思考がだだ漏れしていたのかと。まあ似たようなもので、思いやりなのか、牽制なのか、それとも真実嫌悪なのか。相も変わらず清太がマザコンなのは違いなかったけれど。

 真夏のプールサイドじみてぷらぷらさせていた足を止め、ぴょんっとはずみをつけて作業台から飛び降りた。ビールがこぼれて床を濡らす。首筋からブラウスに飛び散り、胸元へと伝い落ちる。

「じゃあ、昼間」

 私は定盤に向かい、ショルダーバックとスーパーの袋を回収して一方的に宣言する。

「レイカさんがあじの南蛮漬け作るって。明日の昼取りに来て」

 なんで俺が、という不服の声が発せられる前に、言葉を連ねる。

「社長に取りに来るよう、お願いしていいわけ?」

 つまりは反語だった。いいわけがない。

 高らかにヒールを響かせ、私は出入り口の引き戸を開けた。荷物を下げた片腕で引くのは正直なところ辛い。二十年前はもっと軽かった。当然清太は手伝いになんてこない。

 それでもなんとか肩越しに見やる。意外なことに清太はこちらを見ていた。一瞬、探るような視線が絡んで。

 おまえ、よくうちに来れるのな。おふくろ気付いてるぞ。コツコツ響くんだよ――続いていつかの声が数珠つなぎに降ってきて。

 ――清太の傷つくこと、あんまり言わないでね。

 これもつまりは反語のようなものだった。受け手にとってだけれど。だから。

「じゃ、〝おとうさん〟によろしく」

 視線を引き千切って吐いた台詞に、廃棄待ちの一斗缶を蹴り上げる音が覆い被さった。

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