第47話:なな⌒いろ

 しょうと別れてからは、無気力な状態が続いている。


 あれから一年が経とうとしている。

 たくさん、勉強をがんばった。

 いや、それ以外にやることがなかった。

 少なくとも勉強していれば、その間は翔のことを考えなくて済んだ。

 ううん。勉強してても思い出すけど、そのたびに鉛筆を走らせて、想いを振り切ってた。


 空虚な時間。


 ショックで色を失った目。


 灰色の毎日。


 空っぽの日々。


 今のあたしには、何もない。


 2月。

 大学入試の合格発表日。

 フラッと足を運び、あたしの番号があることを確認した。


 けど、何も心が動かなかった。


 周りを見ると、喜び叫ぶ人、呆然と立ち尽くす人、泣き崩れる人…。

 今の感情を体いっぱい表現する人たちがいる。


 翔…。


 あなたがいないと、何もかもが虚しい。

 あなたがいれば、ただそれだけで楽しかった。


 でも、もう…あなたはそこにいない。


 もう、恋なんてしたくない。


 ううん


 もうできない。


 本来だったら、嬉しいと思う。

 高望みした志望の大学に合格したこと。


 三年に上がって、成績から見ると無理だろう言われた。

 それでも無心になって勉強した。遊ぶ気にすらなれず。

 自分で勝ち取ったこの結果。


 けど、分かち合う喜びが、あたしには…ない。

 喜ぶ気にすらなれない。


 この一年、笑った記憶がない。

 感情が悲しみ以外に動いた覚えすらない。


 笑うって、どういう時にするんだっけ…?


 喜ぶって、なんだっけ…?


 泣くって、どんな気持ちの時なんだろう…?


 もう忘れちゃった。


 そのまま発表会場を後にする。

 周りから見ると、たぶんあたしは落ちたと思われるんだろうな。

 でもいいや。どう思われても。


 何もする気になれず、家に帰った。

 家族にだけは、合格したことを伝えた。

 喜んでいたけど、合格した当のあたしは、感情が何も動かない。


 自分の部屋に戻る。

 ベッドに身を預け、天井をボーッと眺めている。

 急に涙が止まらなくなった。

 別れた悲しさはとっくに通り過ぎてる。

 けど涙は流れている。


 なんであたし、泣いてるんだろう…?


 これまでは勉強に打ち込んで、気を紛らわせることができた。

 けど今はそれも無い。


 翔と付き合った一年半を、嫌でも思い出してしまう。

 その思い出を振り払ってくれる勉強は、もうしてない。

 今はする必要がない。


 涙が止まらない。

 止める術がない。


 逢いたい。


 翔に逢いたい。


 頭をポンポンと撫でられて

「大丈夫だよ」

 と言ってほしい。


 けど、もうあたしの手に届かないところへ行ってしまった。


 止まらない涙をどうにもできず、気を紛らわすため外に出る。




 なんとなく、来てしまった。


 翔と最初に出会った電車に乗った駅。


 翔と過ごした学校。


 夜に二人で写真を撮った公園。


 濡れ衣を剥がしたお礼と言って、翔に連れてきてもらったところ。


 あたしが思わず告白した砂浜。


 ここから、すべてが始まった。


 2月の寒くて強い風に吹かれながら、ベンチに座る。


 ここで、子供が迷子で泣いてて…翔がアイスを買ってきて、子供に食べさせて…。


 砂浜を見る。


 あそこで、迷子の子供の親が見つかって、夫婦喧嘩を始めて…。


 翔の「優しいな、緋乃は」という一言で、たまらず告白したのを衛に見られて…。


 あれから、衛は翔に対抗意識燃やして…。


 衛の提案でぞろぞろと別荘に行って…


 別荘の帰りに、あたしは衛を傷つけた。


 登校日に、衛はショックのあまり暴れて…


 あたしはあの日から翔と付き合い始めた。


 けど衛は、憑き物でも落ちたような空気で現れた。


 ペア宿泊券を三つ当てて、みんなで海に行った。


 初キスの予感は、あたしのせいで翔に気を遣わせちゃった。


 詩依は遭難そうなんしかけて、小鮒こふな夫妻と出会って、過去を乗り越えた。


 雪絵が氷空くんに恋をして、応援したよね。


 誤解されて、翔と気まずくなって、でも衛がもとに戻してくれて…


 雪絵は氷空くんの交際と引き換えるように、意識を読む力がうしなわれて…


 翔の誕生日はトラブルだらけで、写真立てをプレゼントして…


 クリスマスもトラブルで振り回されて、夜に初めて翔と体を重ねた。


 初詣は、ショックを受けた。

 

 バレンタインデーまで引きずって、仲直りして…。


 無事に進級できたと思ったら、石動さんが現れて…。


 親の企みで勝手に翔は婚約させられて…。


 なんとか踏みとどまってたけど、二年の年末を前にして、翔の心がもたなくて…




 別れを切り出された。




 ぜんぶ、遠い過去の話。


 あれからのあたしは、本当に空っぽのまま。


 少し背伸びしたランクの大学合格。

 嬉しいはずなのに、心が少しも動かない。


「逢いたい…翔…」


 でも、逢ってどうするの…。


 もうあたしと住んでる世界が違うところに行っちゃった人と。


 散々泣いて、涙もれ果てたはずだった。


 けど、まだ思い出しては涙が出てくる。


 いっそ、このままあっちの沖まで行ってしまえば、楽になれるのかな…。


 冬だから水は冷たいし、すぐに体が動かなくなって、意識が薄れて…そのまま沈んでしまえば…。


 もういいや…。


 何もかも…終わりにしよう。


 あたしはフラフラと浜辺から波打ち際まで足を運ぶ。


 ジャプッ…。


 冷たい。


 けど、不思議と怖さは感じない。


 一歩、また一歩と水は深くなっていく。


 冷たさで、足先の感覚はもうない。


 そっか。こうして全身の感覚が無くなって、意識もなくなるんだ…。


 時々打ち付ける波に逆らって、歩を進める。


 水は腰の高さにきた。


 波をかき分けて、まだ進む。


 胸の高さまで深くなった。


 急激に体温を奪われる。


 腰から下はもう感覚がなくて、まるで自分の体じゃないみたい。


 ザザンッ!!


 気まぐれな波が、あたしの足を絡め取る。


 引いていく波にすくわれ、あたしの姿は水面から消えた。


 冷たい。


 冷たすぎて体中の感覚が麻痺してる。


 同時に、あたし自身の恐怖心も麻痺してる。


 怖くない。


 早く、楽になりたい。


 キラキラとたゆたう波をぼんやりと眺めながら、あたしは目を閉じた。


 灰色の景色とも、これでお別れ…。


 さようなら


 詩依…護…雪絵…氷空くん…俊哉…。


 さようなら


 翔…


 さようなら


 ………







「ん…」


 あれ…?


 あたし、どうなったの?


「緋乃っ!」

 意識がはっきりしてきた。


「お母…さん?」

「緋乃っ!気がついたのねっ!?あたしがわかるっ!?」

 あたしは見慣れない天井をぼんやり眺めていた。


「わかるよ」


 周りはベッドを囲うようにカーテンがあって、窓の外は初めて見る風景。

 そっか、病院か。


 無気力なまま、お母さんとやりとりして、面会時間が過ぎた。

 あたしは足を踏み外して海に転落したということになっていたらしい。

「緋乃、また明日来るからね」


「そっか…助かっちゃったんだ…」

 一人になった病室で呟く。




 あたし…死ぬことも、許されないの…?




 検査を終えて、翌週に退院した。


 体はよくても、心はダメ。


 死ぬつもりで海に身を投げたけど、助かってしまった今、もう死ぬことも諦めた。


 このまま空っぽの日々を送るのかな…。


 家族には、受験ノイローゼということにされて、あちこち病院に連れられた。


 けど、あたしの無気力…原因はハッキリしてる。

 それがどうにもならない事実ということも。




 4月。

 大学の始業式。


 あたしはさくら舞う中で足を進める。


 ピンク色に色づいたさくら。


 けどあたしにはその色を認識できない。


 すべてが灰色に見えている。


 高校の初日、素敵な恋をすると決めて家を出たんだっけ。


 けど今は…もう恋なんてできない。


 翔以上に夢中になれる人なんて、いない。


 大学は高校よりも遠くなった。


 正門をくぐる。


 心躍こころおどる初日、というわけにはいかない。


 高校二年の新年から、あたしの心は平坦なまま。

 感動もしなければ、悲しみもしない。


 ただ、虚しい。


 何もする気が起きない。


 衛、詩依、雪絵、氷空くん、俊哉は揃って別の大学へ進学したらしい。


 翔のことについては、もうわからない。

 知りたくもない。

 知ってもしかたがない。


 思い出すだけで辛くなるから。


 踏みしめる大学の敷地。受験日以来かな。


 何の感慨もないし、感動もない。


 あたし、ここでうまくやっていけるのかな…?

 いや、うまくやっていくつもりもない。


 すべてが虚しい。


 恋すら虚しい。もうしない。


 あたしの心には、一年もの長い間でも、溶けずに降り積もる雪があった。


 その雪は、あたしの心を凍てつかせている。


 一度は身を投げて、死のうとした。


 けど助かってしまった。


 死ぬことに対して、怖さすらなかった。


 あたしの心は、ここまで凍えてしまった。


 自ら死ぬことすら、諦めてしまうほどに。


 高校二年に上がる頃には、人見知りが無くなってきていた。


 けど、今は人見知りはしない。

 その代わり、人に対して無関心になっている。

 人だけじゃない。自分に起きる一切のことにすら無関心になった。

 大学合格を見ても動かない心。


 まるで抜け殻みたいに空っぽ。


 そういえば俊哉も無気力になった時があったんだっけ。

 こんな感じだったんだろうな。


 行き交う人たちの顔は、あたしには映らない。


 意味がない。


 頭が、人を認識したがらない。


 色すらどうでもいい。


 携帯も、別れてからまもなく解約した。


 あなたと、いつでもつながっていられた電話も、意味がなくなった。


 受験勉強には、邪魔と感じた。


 この虚しさ、心の傷も…いつかは癒えるのかな…?


 もしまだ、雪絵に意識を読む力が残っていたら、あたしはどう思われたんだろう?


 ぼんやりとしながら、広い敷地を進む。




「緋乃っ!」

 聞き覚えのある声が後ろからかかる。

 間違いない。間違えようもない。


 なんで…翔がここに…。


「待てよ!」


 振り向かず、翔から離れるように歩く。


「こないでっ!」


 背を向けたまま、思わず叫ぶ。


「こないでよ…せっかく、忘れようとしてるのに」

 立ち止まり、流れそうな涙を必死でこらえる。


 逢いたかった。


 逢いたくてしょうがなかった。


 でも、もう…あたしが辛くなるだけ…。


 惨めになるだけ…。


「もう、あたしの入る余地なんて無いじゃない」


 ツカツカと歩いてくる。


「こないで…」


 構わず近づいてくる。


「こないでよ…」


 すぐ後ろに立つ翔。


 胸が苦しい。


 逢いたかった…けどあたしにはもう、翔のそばにいる資格がない。


 走って逃げようとした。

 その瞬間…。


 ふわっ。


 後ろから抱き締められた。


「だめ…やさしくしないで」

 こらえていた涙が止まらなくなった。


「ずっと、逢いたかった。緋乃…これから四年、ずっと一緒だ」


 まさか…翔が同じ大学に…?


「だめ…だめだよ…翔には石動さんが…石動さんと…婚約が…」


「それは正式に破棄が決定した」


「………えっ!?」


「だから、もうお前を離さない。絶対に」


「それって…?」


「先月、石動コーポレーションで深刻な不正会計が発覚した。かつてない厳しい行政処分が決定して、俺の親父が常務取締役をしている御代みよHDは会社のイメージ悪化を恐れて、石動との合併がっぺいどころか、業務提携の妥協案だきょうあんすら白紙にした。石動と俺をつなぎとめていた鎖は無い。もう二度と、大人たちの企みによっても、俺が石動と歩み寄ることはない」


「翔…?」


「俺は、俺の手で、緋乃を守り抜くと誓った。けど結局は子供だった。親の仕組んだ、陰謀という大きな流れから守り抜くことはできなかった」


 後ろから抱き締めていた腕を離し、正面に回って肩を掴む。


「俺、なってみせる。社会という大きな流れすら、緋乃を守り抜くためにその向きを変える大人に」


 まっすぐ見つめる翔の瞳に、一点の曇りすらない。


「好きだ。緋乃。もう一度、俺とつきあってくれ」


 灰色に染まっていた、あたしの瞳が




 色を…彩りを取り戻した




 深々しんしんと降り積もった心の雪が、一気に溶け出した。


 長らく忘れていた笑顔の花が、一気に咲き出した。


 溶け出した心の雪は、涙になって…あふれて溢れて、止まらない。


「はいっ!」


 頬を伝う涙は、あたしが初めて流した…嬉し涙。





 再び、翔のとなりであるいてる自分がいた。

 一度は諦めた、翔のとなりに。


「降ったりやんだり、今日は変な天気だな」

 さっきまでザーザー降っていた雨は、蛇口を締めたかのようにやんだ。

 傘をたたむ。下ろした傘から雫がしたたり落ちる。

 空を見ると日が差しているけど、別の雨雲がまた迫ってきている。

 地面に溜まった水が反射してまぶしい。

「そんなのいいじゃない。どんな天気でも、あたしはとても幸せだよっ!」


 色を、彩りを取り戻した、あたしの瞳。

 せわしなく揺れ動く感情と表情。

 さり気ない優しさにあたたまる心。

 木の葉から落ちる雨の一粒すら、キラキラして見える。

 

「ほらっ、翔!見上げてみてっ!キレイだよっ!」



 いろいろあったけど


 いろんな人が


 いろんな思いをもって


 ときに消えて


 ときに現れて


 それぞれの色をもって


 心のなかで光かがやくんだろうな


 そう


 この空にかかる




 なないろのように




(なな⌒いろ/全47話:完)

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