第25話:春風

 氷空そらくんは顔を赤くしていた。

 雪絵ゆきえがネコを抱っこして顔を舐められていた時の透き通った輝く笑顔が、目に焼き付いていた。


 あの笑顔を、また見たい。


「氷空くん何してるの?」

 雪絵は冷静な声で問いかける。

「みゃ~」

 氷空くんは、ネコのかぶりものをして雪絵の前に来た。

 おでこにあたる部分に猫の顔があって、ネコが口を大きく開けているようなくり抜きの部分に氷空くんの顔が出ているというもの。

 その頭だけコスプレで四つん這いになっているところがなんとも言えず哀愁を誘う。


「だめか~…」

 氷空くんはがっくりと自分の席で机に突っ伏して自己嫌悪してる。

 あの笑顔をもう一度見たい。

 動物と戯れてのことではなく、自分の手で。


「よし次は…」


「それほんとっ!?」

「うん、間違いないと思うよぉ」

 一番恐れていたことが現実になってしまった…。

 まさか雪絵、氷空くん関係のことがわからないって言ってたけど、まさかそれもわかるようになっちゃったの…?


 あっ、まさか…。

 あたしは思い当たることがあって、休み時間に雪絵の元へ行く。


「雪絵っ!」

 どこへ向かってるのか、教室を出るところだった。

「待って!雪絵っ!」

 呼びかけても止まろうとせず、無視されてしまう。

「お願いっ!雪絵、話を聞いてっ!!」

 あたしは前に出て進路を塞ぐけど、スイっと避けて通り過ぎた。

 キュッ…。

 ほぞを噛んでも、このモヤモヤした思いを断ち切れるわけもなく。

 気がついたら手を伸ばしていた。

「…離して」

 やっと口を開いた雪絵の口調は、背筋すら凍りそうな冷たさだった。

「離さない」

 雪絵は振り向き、その無表情さに寒気を覚えた。


「教えて雪絵っ!もしかして昨日、あたしが氷空くんと話をしてるところに…」

 表情を変えず

「いた。偶然だけど」

 返事に、さあっと青ざめるあたし。

「あのっ、あれはね…」

「わかってる。緋乃あけのにその気が無いことも、仕方のないことも」

 ひと呼吸つく。

「けど…」

 雪絵がキッと睨む。


「黙っていたことは許せない」


 雪絵の手を掴む力が少し抜けたのを待っていたかのように、振りほどかれた。

 背を向けて歩き出すその背中は、雪絵の心が氷に閉ざされてしまったことを、嫌でも感じていた。


「やだ…よ…雪絵…」


 もう聞こえるはずのない、雪絵のいた場所につぶやいてみるけど、答えるものはいなかった。


 まただ…。

 またこの感覚だ…。

 雪絵は最近、いつもと違う感覚に陥っていた。

「どうして…?どうなっちゃうの…?あたし…」

 焦りともどかしさを抱えたまま、雪絵はひとけの無い場所を探して彷徨さまよっていた。


「雪絵ちゃん」

「氷空…くん?」

 声をかけられ、そこにいたのは氷空くんだった。

 かぶりものはさすがにしてない。

 スッと手を出して

「あはははははっ!」

 突然くすぐりだした。

「何するのっ!?」

雪絵は振りほどいて抗議する。

「うーん」

 どこか納得いかない顔をする。

「違うな…」

 クルッと背を向けて行ってしまう。

「何なの…?」


詩依しよ~…最悪だよ…氷空くんに断ったとこ、雪絵に聞かれてた…」

「やっぱりそうかぁ…となると氷空くんをけしかけて、雪絵とくっつけるしかないかなぁ」

「そういう問題じゃないの。あたしが氷空くんに告られたことを黙っていたことそのものに怒ってた」

 伝えなきゃダメだったんだ…また先延ばしにしたことで…話がこじれちゃった。

「雪絵が怒ったの、多分違うぜ」

「翔…」

「黙ってたこと自体じゃなくて、雪絵が気持ちを弄ばれたと感じてるんだ」

「…そうだとしても、雪絵はもう…」

 翔と衛は顔を見合わせて、苦笑いする。


「よっ、雪絵っ」

「…」

 雪絵は翔の声を気にも留めず通り過ぎる。

(どうせ、もとに戻るだけ…詩依と出会うより前の…独りに)

 昏い目をして歩を進める。


「うーん、これはあの二人に限った話じゃないのか…まるで中学の時を思い出すな」

 無視された翔は小さく呟く。

 この様子を、俊哉は陰で見ていた。


「はぁ…どうしたら雪絵ちゃんを笑顔にできるのかな…?」

 壁から顔を出して、独り言を漏らす氷空くん。

 廊下を挟んで反対側にいた俊哉がこの独り言を耳にする。

「よっ、雪絵が気になるのか?」

「ん?」

 氷空くんは俊哉に気づく。

「俺は槇島まきしま 俊哉としや。雪絵と同じ四組だ」

上野うえの 氷空です」

 初対面にも関わらず、気になる人を話題に出されても動じない。

「雪絵は人の気持ちにすげー敏感だから、小手先の心理テクは全く通用しないぜ」

「そうなんだ?僕はただ、もう一度あの笑顔を見たいだけなんだ」

 俊哉は目が点になった。


「雪絵が…笑顔?」

 狐につままれたような感覚に陥る俊哉。

「見たこと無いんですか?」

 さも当然のように言う氷空くん。

「あいつ…笑うのか?よく微笑みはするけど」

「うん、すごく可愛い笑顔だった」

 思い出すように上を見る。

「今までに見た、誰のどんな笑顔よりも輝いていて、まるで珠の宝石のようだった」

 ほーっ…と自分の世界に入ってしまった。


(なるほど、こいつは雪絵を好きだな。それもあまり自覚が無い)

 俊哉は氷空くんの言う雪絵の笑顔とやらにも興味を持ち始めた。

「わあった。俺は雪絵の同クラだから、協力するぜ」

「いえ、これは僕の勝手な思いなんで協力はいりません」

「わあった。なら俺も俺の勝手な思いだから、勝手に動かせてもらうぜ。ところでその笑顔ってどんな時だった?」

「ネコと戯れてた」

 てっきり無視されると思ったが、あっさり返事があった。

 …あいつ猫好きだったっけ?それ以前に雪絵のプライベートってほとんど知らないんだよな。

「ならそのネコを持ってくりゃ解決じゃね?」

「違う。ネコの手は借りず、自分の手で笑顔にしたいんだ」

 なるほどな。猫の手も借りたいほどではない、と…意味ちげぇか。

「で、どうやって笑わせるんだ?」

「それがわかれば苦労はないよ」

 肩をすくめて答える。

(確かに雪絵の笑いのツボはよくわからん。そもそも笑ったとこを見たことがない。微笑みはいつものことだが)

「くすぐるってのは」

「もうやったけど違った」

(やったんかい。でもそういう笑い方は求めてないんだ?)

「ならとっておきのネタを伝授しよう」


「ねぇ、雪絵ちゃん」

 氷空くんが通りかかった雪絵に声をかける。

「…何?」

 両手で自分を抱きかかえるように身構えている。

「こんな話があるんだ」

「…?」


Aさん「ひでーよな。愛用の手帳一つ無くしたくらいでクビになっちゃったよ」

 氷空くんは別の人がいるような演出のため、立っていた場所を少し変えて会話してる相手のようなポーズをする。

Bさん「そりゃいくらなんでもやりすぎだろう。ところで何の仕事してたの?」

 再び立っていた場所を戻して向き直る。

Aさん「警察さ」


「………」

 雪絵は一瞬、言葉と表情を失った。

 どうしていいのかわからず、反応に困った顔をしている。


「全然ダメだったよ。さすがジョークのセンスが良すぎて雪絵ちゃんも反応に困ってた。僕と同じ反応だったな」

 俊哉とっておきのネタを披露して、すぐに戻ってきた氷空くん。

「あーはいはい。嫌味ごちそうさま」

 ふてくされた顔をしている俊哉。


 その後、俊哉の提案も混ぜて雪絵にいろいろと笑わせようとするも、うまくいかない。

 俊哉はここで気づいた点がある。

 翔や緋乃たちは無視するけど、氷空くんだけは無視せずにやりとりはしていることだった。


「雪絵ちゃん」

「…氷空くん、また一発ネタ?」

「こんな話が…」

「もういいっ!」

 雪絵が珍しく困った顔で怒った。

「最近の氷空くん、なんなの?突然わけのわからないことをしてすぐに行っちゃう!何を考えてるのかわからないけど、すごく迷惑してるんだからっ!」

(怒られた…雪絵ちゃんに笑ってほしくて…けど逆に怒らせちゃった)

「…そうだよね、わかった」

 くるっと背を向けて、雪絵から離れる氷空くん。


(僕は…雪絵ちゃんに笑ってほしくて、考えてみてたけど…さっき拒否されてわかった。僕の気持ちが…)

 氷空くんは教室に戻り、紙と鉛筆を取り出して書き始める。

 放課後になり、帰りは寄り道をすることにした。

「えっと…これは大きさとして妥当かな…?あとこれは長さが少し足りないかな…」

(気になってた緋乃ちゃんに告白はしたけど、雪絵ちゃんのあの笑顔で…すっかり心を奪われちゃったな。最初は気になるだけだったのが…)

「このボタンは少し大きいか…これは子供っぽすぎるかな…」

 手にしたボタンを縫い付ける。


「よーっす俊哉」

「おう」

 翔が俊哉を見つけた。

「たまには一緒に帰るか」

「だな。俺も聞きてーことがある。ところで彼女はいいのか?」

「ちょっと今そんな気分じゃないんでね。お互いにさ」

「なんだなんだ?アツアツだと思ってたのにもう飽きちゃったか?」

 目を閉じて首を横に振る。

「雪絵のことか?」

「そうだ」

「あんなに仲良かったじゃねーか。何であんな状態になったんだ?」

「見てたのか」

 ハッ、と息を吐く俊哉。

「ガン無視されてたんの見た。もしかして三組のやつ絡みか?」

「違…わないか…」

 翔の顔が曇るのを見て

「何があったか知らねーが、唯一仲直りの可能性があるとすれば、三組の氷空ってやつがキーだろーな。雪絵のことが気になってるみたいで、俺がいろいろと入れ知恵してみてってけど、なかなか厳しい感じだった」

「手荒なことはするなよ」

 昔のことを思い出す翔。

「緋乃のことで懲りたよ。安心しろ」

「そうか」


 衣替えの季節がやってきた。

 残暑も収まり、紅葉が始まった頃…緋乃たちは雪絵との仲直りはまったく見通しが立たずに時間だけが過ぎていった。


「できたっ!」

 氷空くんは今まで考えていたものが、やっと形になった。

 小洒落た紙袋にそれを入れて登校の準備をする。


(大丈夫…また元に戻っただけ…独りだった、あの頃に)

 雪絵は少しだけ後悔していた。

 氷空くんに、あんなことを言ってしまったことを。

 あの日から氷空くんは一切雪絵に絡もうとしてこない。

(完全に、呆れられちゃったかな…も…日に日に進んでいく…)

 はぁ…。

「あたし…この先どうなっちゃうのかな…?」

 同じクラスの俊哉もなぜかあたしに絡んでこなくなったし…ってあたしが拒否したんだっけ。

 自分の席へ座り、カバンを開ける。

 教材を入れようとした時、机に何かがあった。

 それを手に取ると…氷空くんからの手紙だった。


 放課後。

 手紙に記されていた時間に、雪絵はその場所へ足を向けた。

 そこにはもう氷空くんがいた。

「雪絵…ちゃん、これ…」

 雪絵は氷空くんから差し出された紙袋を手に取る。

「何?」

「開けてみて」

 少しいぶかしげに、雪絵はその袋を開ける。


 がさっ。

 柔らかい何かが手に触れた。

 雪絵はそれを掴んで、袋から取り出した。

「…ネコ?」

 雪絵の手の二回りくらい大きいふわふわの生地が袋のようになっていて、楕円の形をしている。

 上半分にファスナーがついていて、開け閉めができる。

 ファスナーを避けるように耳を形どった三角形の生地が二つ付いている。

 楕円の生地は白と茶色のブチ模様で、三つのボタンで目、鼻を表現していて、刺繍でヒゲと口が形どられていた。


「うん、僕の手作りなんだ」

「これをどうしようと?」

「雪絵ちゃんにプレゼントしたくて」

 氷空くんは照れくさそうに答える。

「別に、あたしは…そもそもなんでネコなの?」


「僕、見たんだ。偶然だったけど」

 雪絵は顔を上げた。

「何を?」

「通学路の公園で、雪絵ちゃんがネコと遊んでるところを。その時の笑顔が忘れられなくて…ネコと遊んでる雪絵ちゃんじゃなくて、僕が雪絵ちゃんを笑顔にさせたくて…」

 ぼっ!

 雪絵の顔が一気に赤くなった。


「みっ…みっ…見てたのっ!?」

「見るつもりじゃなかったんだけど、たまたま公園の隅に行ったのを見かけて気になって…」

「あっ…あっ…あっ…あれはっ…」

「とても素敵な笑顔だった。雪絵ちゃんって笑うとすごく可愛いから、ずっと笑顔でいてほしくて…いろいろ考えたけど、もうこれくらいしか思いつかなくて…」

 氷空くんは顔を赤くしながら、雪絵に向き直る。


「受け取ってください。雪絵ちゃん」

 真っ赤になったまま驚きの顔が、そのまま笑顔に変わる。


「はい!」


 ドキッ


 氷空くんの心臓が跳ね上がる。

「そ…それと、そのポーチとは関係なく、伝えたいことがあります」

 ドキン、ドキン、ドキン…。

 氷空くんの鼓動がますます高まる。


「好きです。雪絵ちゃん。僕と…付き合ってください」

 雪絵の笑顔が、透明度を増して輝きを放ち始める。

 ネコと戯れているときよりも、遥かに。

 雪絵が口を開く。


「はいっ!」


 自ら凍てつかせていた雪絵の心は、永久凍土の鎖から開放されて春を迎えた。

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