大嫌いな先輩へ
サヨナキドリ
「おめでとうございます、先輩」
「おめでとうございます、先輩。先輩は私の恋人に選ばれました」
心底嫌そうな顔でやる気のない拍手をしながら、小日向アカネがいう。ラブレターなんて古風な方法で誰が呼び出したのかと道場裏に向かったら、馴染みのある顔が待っていたもので日下部は拍子抜けしていたのだが、それにしても妙な告白だ。
「え?何それ。いちいち突っかかってきてたけど、小日向って俺のこと好きだったの?」
「そんな訳ないじゃないですか。大嫌いですよ。あ、先輩に拒否権はありません。これは『小日向命令』なので」
眉間にしわを寄せながら小日向が答える。
「なんだそりゃ。意味わからん」
小日向はため息をひとつ吐くとポケットからスマホを取り出し、電話をかけ始めた。そして、その電話を日下部に渡す。
「日下部?久しぶり!」
その声に日下部は覚えがあった。
「小日向先輩じゃないですか!」
小日向アオイは去年引退した先輩だ。名前の通り、アカネの兄である。
「そういうわけで日下部、今日から一カ月の間アカネの恋人な」
「いやどういうわけですか!ちゃんと説明してください」
日下部が電話越しに噛み付くと、小日向は説明を始めた。
「いや、昨日アカネと議論になってさ。俺は恋人同士になってからお互いに好きになることも多いし、そっちの方が自然だと思うんだけど、アカネは好きになった人と恋人になるもんだっていうんだよね。だから、ひとつ賭けをすることにした。『好きでもない相手と一カ月恋人でいたら、相手のことを好きになるか』。賭けに負けたほうが勝ったほうの言うことをひとつ聞くことになってるから、日下部、頑張ってくれよ!」
「……無茶苦茶な」
一方的に切られた電話を呆然と見ながら日下部は呟いた。けれど、この感じは現役時代から何一つ変わっていない。
「で、なんで俺なの?」
向き直りながら日下部がアカネに訊ねる。
「決まってるじゃないですか。私が先輩のことを一番大嫌いだからです。バカだしスケベだし。絶対に好きになるはずないからです。これで賭けは私の勝ちも同然です」
「ひどい理由だな!」
日下部が腹いせにスマホを投擲する姿勢に入ったので、取り返すためにアカネが飛びかかった。
「先輩、デートです」
「は?」
穏やかな土曜日の昼に玄関先に現れたアカネの言葉は端的だった。端的で意味不明だったので日下部は聞き返す。
「お……兄が『デートもしてない相手を恋人とは呼べない』と。このままでは兄の不戦勝になります。だから、デートしましょう。昼食でも一緒にどうですか?」
「わかったけど誘い方ってもんがあるだろ。コミュ症か?」
「は?なんで私が先輩に媚び売るようなことしなきゃいけないんですか?」
アカネが0℃近い視線で睨む。
「はいはい、わかりましたよ。いきますよ」
日下部は一度玄関を閉めて、財布とその他もろもろの入ったショルダーバッグを掴んで家を出た。アカネの案内に従って歩いて行くと、まもなく目的の店に着いた。盛況ではあるが。
「……」
「小洒落たカフェとか期待してました?残念でした」
「なんでよりにもよって」
ラーメン屋であった。もやしとチャーシューと背脂で名高いラーメン屋であった。
「私がひとりで入ろうとすると、中の客が小馬鹿にした空気を漂わせてくるんですよ。私が女の子だからってばかにして……」
なるほど、たしかに女性にはハードルが高い店かもしれない。
「それで俺を誘ったって訳か。なんだかんだ楽しんでんじゃないか」
「何か?」
ペーパーナイフ程度に鋭い目つきでアカネは威圧した。店の席に着くと、アカネこの店特有の呪文じみた注文を流れるように店員に伝えた。直後に鼻息が荒くなったところを見ると、練習してきたらしい。しかし
「おい、お前それ食い切れるのか?」
アカネの注文は、ほぼ全部マシと言えるものだった。
「女だからってばかにしないでください。」
「ふーん」
そういうと日下部は自分の注文を伝える。
「先輩こそ、そんな少なくて大丈夫なんですか?この店でそんな注文をする人がいるなんて初めて知りました。意外と少食なんですね」
「まあ、そんなとこだ」
「アカネ」
「いま話しかけないでください。集中してるんです」
暑さによるものではない汗を流しながらアカネは振り払うように言った。そうは言うものの、まだ半分程度しか食べていないのに先ほどから箸が全く進んでいない。その間に、太い麺はどんどんスープを吸っていく
「アカネ、ここは恋人らしくシェアしよう。そっちも食べてみたい」
「……それなら仕方ありませんね。全く、先輩はわがままです」
不承不承といった感じでアカネは日下部のほうにどんぶりを押しやる。それから安堵の溜息をつき、テーブルに突っ伏した。そのまま隣を見る。日下部が持ち上げた麺が唇に触れる。
「……あ!間接キス狙いですか!先輩スケベ!どんぶり越しのキスとかノーカンですから!」
「そんなこと考えてないわい!!」
「先輩、大丈夫ですか?」
「ふぅ……ふぅ……大丈夫」
そうは言っても、かなり限界に見える。あの店のラーメン1と1/2杯は男性にも多い。よろめきながらどうにか店先から休める場所まで歩いてきた。
「私が言うのもなんですけど、そんなに無理しなくても良かったのに……ありがとうございます」
気休めだが、アカネが日下部の背中をさする。
「なんのことだかこってりわからん」
「さっぱりです。せっかくひとがありがたがってるときにしょうもない小ボケを挟まないでください。」
アカネがピシャリとつっこんだ。けれど、少しだけ口調を緩めて続ける。
「……お礼に、この後スイーツバイキングに行きましょう。友達と行くために目をつけていたお店があるんです」
「この状態に追いスイーツ!?」
「別腹じゃないんですか?」
なんだかんだ言って、ひと月という時間はあっという間だった。最後の夜、23時30分にアカネのスマホに日下部からメッセージが届いた。条例に引っかかる恐れもあるが、指定された公園はすぐ近くである。
「……こんな時間に呼び出して、何をするつもりですか?」
「なんだろうな。……そこに立って目をつぶって。動かないで」
怪訝な顔のままアカネは目をつぶった。日下部は、アカネを抱きしめた。強く。
「先輩、苦しいです」
その声を聞いて日下部は腕を緩めた。
「急に抱きついてくるなんて、痴漢ですか通報しますよ」
「いいだろ、まだ恋人なんだから、あと3分だけは。……賭けには勝てそうだな」
頭をもたれかからせるようにして耳元で日下部がささやいた。あと3分。
「俺はこれが始まる前から、アカネの本当の恋人になりたかった」
アカネが日下部の体との間に腕を差し込み、押しやる。
「先輩……私は先輩が大嫌いです」
日下部の胸に手を突いたままアカネは言った。
「バカでスケベで子供で何かというと張り合って、大嫌いなのに、一緒にいると楽しい思い出ばかりが増えて!」
半歩詰め寄り、胸を叩く。
「嫌いなところは山ほどあるのに、好きなところがどんどん増えて、今では好きなところの方が多いんです!なんなんですか!こんなの……こんなの大好きだってことじゃないですか!!」
もう半歩詰め寄り胸ぐらを掴む。
「先輩のせいで賭けに負けてしまいました、どうしてくれるんですか!!」
「わかった。お詫びになんでもひとつアカネのいうことを聞こう」
「なら今すぐここでキスしてください!」
日下部はそれに応えた。12時を回るが、鐘はならない。シンデレラとは違い、ここには解けるべき魔法などありはしないのだから。
「ディスティニーランドのペアチケット?」
「おに……兄に押し付けられたんです。『2人で行ってこい』って。」
なるほど、それが賭けの報酬なのか。
「ホテルまで……結構な値段するはずなんだが」
さすが大学生である。
「先輩に拒否権はありませんよ。これは『小日向命令』ですから」
そういうとアカネは笑った。
**
「お疲れ様です先輩。なんでこんなことしたんですか?『愛の反対は無関心』?いえ、知ってますよ、マザー・テレサですよね。なるほど、嫌いと好きの間の距離は小さいから、一番大嫌いな私を相手に選んだ時点で勝ちは確定していたと。まあ、俺としては有り難いですけどね。あ、あともう一つ。ディスティニーランドに行ったカップルは別れるってジンクス知ってます?とぼけても無駄ですよ。その反応は知っててやってますね。先輩もずいぶんシスコンですね。応援するだけ応援して、いざくっついたらひっぺがすんですか?絶対に放しませんからね。身から出た錆です。また何かの機会に会いましょう、お義兄さん」
大嫌いな先輩へ サヨナキドリ @sayonaki
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