第10話 夜空に浮かぶ
――作戦開始まで残り三十分。
男は自分の装備を何度も入念にチェックし、それが終わると今度は腕や肩を回しアキレス腱を伸ばすなどして身体をほぐしていく。そんな男は小難しい表情をしていた。
「……」
先の見えない恐怖と不安からなのか、常に身体を動かしてないと落ち着かない、そんな様子だった。
明らかに動揺している男を見兼ねて近くに居た女性が声を掛ける。
「どうした?お前らしくない」
「あぁ?別にそんなことはないだろ」
「お前に緊張という感情があったとは知らなかった」
「うるせえ」
男は溜め息をつき、肩に掛かる長さの髪を後ろで纏め上げポケットから出したヘアゴムで縛った。
「…なあ、お前はどう思う?」
「ん、何のことだ」
「あいつの
「…さあな。それにこの前の事はイレギュラーだったと言っていたしあの予言とやらも絶対ではないのだろう。…多少の誤差やイレギュラーも私達でなんとかしなくてはな」
「それでもし失敗したらどうすんだ。事実予言が百パーセントではないと知った上でこんなことをするなんて、馬鹿げてるだろ」
「命令だからな」
男は舌打ちをし、命令された誰かに向かって悪態をついた。
「お前の考えてる最悪がどんなものなのかは知らんが、少しは自信を持ったらどうだ?敵の主力に打ち勝ったのだろう?」
「――はあ……。分かったもういい。お前と話してても無駄だった」
「失礼なやつだ」
分かってないなと言いたげな溜め息をした男の態度に女性は決して不機嫌そうにはしなかった。。
「まあ、それほど危険な存在だということは肝に命じておく」
「…俺の思い過ごしだ。お前は気にすんじゃねえ」
作戦開始まで残り二十八分。それを確認し男性は自分の隊へ向かう、その前に女性に振り返る。
「…死ぬなよ」
「お互い様だ」
纏めた髪を揺らしながら男性はその場を離れた。
「――オトノ…?」
床に寝そべったまま、何かをじっと見つめていた。目線の先にあるのは二人の死体。それをただひたすらに見つめていた。
アリアが上体を起こしてオトノの名前を呼ぶがそちらには目もくれなかった。
「ねえ、ねえ、どうしたの…?」
「……」
肩を大きく揺さぶってやっと顔をアリアの方へ向けた。しかしそのまま何も言わず目線を反らし、やがて両手で顔を覆った。黒い瞳がギョロギョロと上下左右を動き、手を観察し続けていた。
あまりにも不可解な行動を取るオトノを前にどうもできないアリア。また泣きだしてしまいそうなアリアは、オトノの膝と背中に手を伸ばし抱えて立ち上がる。
「もう、こんなとこから離れよう…!」
有無を言わさず二人は地下室から出ていった。
オトノを連れ去った夫婦の家から出ると外は既に暗く、街灯や窓から溢れる明かりが道を照らしていた。
アリアはだらんと手足をぶら下げてまるで死体のようなオトノを抱え、軍事基地まで走り始めた。
――胸の奥の何かが疼く。この感覚は一体……?
私はふと彼を見る。
死にたくないと強く願った私の前に現れた彼。それが彼の意志でなかったとしても結果的にそうなった。そうなってしまった。
私は彼の助けになりたい。彼の哀しみに満ちた表情を見たあの夜……、いや違う。
――きっと最初からずっとそう思ってた。
どうして彼が苦しむ姿を見ると酷く感情が動かされるのか、私にも分からない。今までこんな経験は一度も無かった。
両親が亡くなった時と同じくらい、私は心から哀しくなるの。まるで心が繋がっているかのように、自分の事のように思えてしまうの。
でも、私よりも彼の方がそうなのだろう。
彼はずっと苦しんでいるはずなのにそうは見せなかった。感情を表には出さなかった。
それでも私はなんとなく感じていた。
私だけが感じていた。
――彼の絶望を。
きっと、あの時の私は、こんな顔をしてたのかな。
それは一言で表すならば、虚無。
瞳は私を見ている筈なのに見られているという感覚は無かった。目の前の私さえも風景として捉えているみたいだった。
絶望を通り過ぎた表情に、私もなっていたかもしれない。
アルバも友人も仲間達全員、大切なものを失って、何もかも全てを失えば、私はきっと彼のようになるのかな。
私も、死にたいと思ってしまうのかな……。
…ああ、そうか。憶測だけど、彼は何かを失ったんだ。
似ていると感じたものはこれだったんだ。
喪失感。
私の成れの果ては、彼なんだ。
からっぽで何も残らない。彼の瞳と同じように、目の前の世界の景色も消え失せて、光も届かなくなって、ただ自分だけが取り残されるんだ。
――ああ、本当だ。
それを自覚して今、確かに軽くなった。
無気力なまま私を見つめる彼――オトノを抱えている途中で彼から何かが抜け落ちたのか、はたまた元から何も残っていなかったのか定かではないけど、不気味なほど重さを感じなくなった。
軽かった。
「オトノ…、オトノ…」
「…………」
目だけは確かに私を視界に入れていた。けど本当にそれだけで、身体にはどこにも力が入っていなかった。死んでいるかのようでとても怖かった。何度呼び掛けても返事は来ない。
「オトノ……」
それでも名前を呼び続けた。自分の無力さを叩きつけられて嫌な気分になる。自分はオトノを幸せにしてあげられないという事実が胸の奥を締め付ける。
「……おかしい」
「――!!」
突然彼が喋りだしたため彼に目線を向ける。私は走る速度を徐々に緩めて立ち止まった。
「何か……変だ。こんなんじゃない……」
「え……?どう…したの?ねえ…!」
違う、おかしい、変だ、と独り言を呟き始めた。あまりにも様子がおかしい。彼に何が起きているのか分からず宥めるだけで精一杯だった。
「落ち着いて、オトノ!」
大きな声を掛けてやっとオトノは私を
「――人が死んだのに、何も感じない!!!」
…どういうこと?死んだ、って私が殺した二人のこと?何も感じないという言葉の具体性が掴めない。何故あなたを残虐なまでに甚振ったあんな奴等の事に悩むの…?
私が唖然としていると、彼は私の名前を呼び目を見つめて言葉を口にした。
「誰も自分のようになって欲しくないと思っていたんだ…。不幸にはなってほしくないと…。誰かの傷付いた姿を見ると嫌な気分になるんだ。この力で治したときはそれが…無くなる気がして…。それが幸せとは程遠いのは分かる…、そうでないことも分かってる…。でもどこか、表現できない安心感が生まれるんだ…」
私を、皆を幸せにしたいと言ったあの時の言葉の裏で、あなたはそう思っていたんだね…。
「――でも今、何も感じていない…。あの二人の死の瞬間、死という絶対的な不幸の瞬間に、何も、何一つとして感情が湧いて来なかった…!傷付いた時も…、傷を癒せずに死んでいった時も!こんなの
――は…?
「――何が…、おかしいの……?」
自分さえも疑いそうになったけれど、自問自答するまでもなかった。
「あなたは何も間違っていないわ!!」
思わずそう叫んだ。
何故あなたを苦しめたクズが死んで、あなたがそれに感情を抱かなければならないの?あるとしてもいい気味だと嘲笑うような感情や呪詛のごとき憎悪を抱くはずなのに。
一つの結論が出てきた。見付けたくない、まさかとしか考えられなかったけれど、彼の悩む原因はこれしかなかった。。
――彼は、あんな奴等でさえも幸せになってほしいと思っているんだ。そしてその思考に至らなかった自分に
ますます彼を理解できなくなった。彼と心の距離を縮めようとして様々な知識を得たところで、その道は常に形を変え続ける迷路みたいで、持ち寄った理論も理屈もかえって邪魔だった。
彼は酷く顔を歪める。私の言葉が響いたのか、額から汗が流れ顔は薄く青ざめパニックに陥っていた。
「そんなはず……、無い……」
勘違いをしていると願って、親が子に言い聞かせるように私は彼に顔を近付けた。
「――オトノ聞いて。あいつらは、あなたを誘拐して、鎖で縛り付けて、火焙りにまでしたのよ…!そんなクズが死ぬことにどう思うのも勝手だけど、それであなたが悩む必要なんてどこにもないのよ!有ってはならないのよ!」
「え……?あ…ああ……?」
「死んで当然、寧ろそれすら生緩い程の事をあなたにしたのよ!お願いオトノ!しっかりして!」
彼の声に困惑の色が混ざる。私を見つめたりどこか遠いところを見ていたりと目まぐるしく視線があちこちへ移る。彼が考え事をする時の癖だ。
だがそれも決して長くは続かなかった。彼は言葉を咀嚼すると直ちに平静を取り戻した。
「……ああ、そう…なのか…。そうだよな……」
一人で納得した彼は深く深呼吸をした。
「――なんで俺は……」
後悔と懐疑の念が合わさった、そんな風に呟いた。
彼は右手で前髪を掻き上げ、目元を袖で擦り涙を拭った。涙で赤くなることもなく、何事も無かったかのような状態に治ってしまった。
「アリア、もうここで…」
彼は私とは逆の方へゆっくりと体重を寄せる。横目で私に下ろしてくれという意図を伝えていた。手離すことに憂いの表情を浮かばせながら私は石畳へ陶器を扱うが如く彼をゆっくりと下ろした。
「オトノ…」
上手く力が入らないのか気力がそもそもないのか、両手を地に着きながら膝をついた。やっと二本足で立つもバランスを崩し倒れそうになるが、すかさず私が彼の背中に手を添えてその危険を消し去った。
それでも私は曇った表情のままだった。
「……」
「心配掛けてごめん、アリア。…でももう、大丈――」
「――そんなはず無いよね」
死を映した瞳で…、未だ地獄を彷徨い続けているかのような表情で…、そんなこと、信じられない…!
信じたいよ……。
本当は大丈夫なんだって……。
あなたのことを、信頼したい……。
でも…無理だよ……。
二人の会話はここで途切れた。
お互い身長も目線の高さも殆ど同じで、正面にいる相手とは自然と向き合う形になっていたが目線は交わらなかった。アリアは俯きオトノは空を仰いでいたからだ。
オトノは自分がどのような状態かなど解りきっていたし、アリアも“大丈夫”という言葉がオトノの虚栄や強がりであるとはすぐに看破していた。
ただお互いに、相手の事を思いやって答えただけだった。
二人の視線の先――夜空も地面も黒一色だった。闇に呑み込まれそうな新月の夜は、今の二人にとっては有り難かった。
そんな二人に迫る影もまた二つ。
「おーい、セルシアせんぱーい!」
無邪気そうな声でアリアを呼ぶのは黒髪で三編みが特徴的な少女――のような背丈の後輩だ。背中には自分の半分程はありそうな銃を背負っていたが、全速力で二人へ向かってくる。
それに追随するのは青白いくせ毛に眼鏡を掛けたアリアの同期。こちらは大きな盾を背負っていた。その重さのせいか、息を切らして肩で呼吸していた。
「あっ!オトノさんも一緒ですね。流石です!」
「はあ…、やっと…!本当に、見付かって良かった…。ぜえ…はあ…」
「――ビークン、シューヤ」
アリアはその二人の名前を呼んだ。女の方が前者で男の方後者を示していた。
「連絡できなかったのは謝るわ。…色々あって、そこまで頭が回らなかったわ」
「そうか…、でも…もっと早く言って欲しかった…!」
「ベリーせんぱい体力無ーい」
「お前がちょこまかとどっかに行くからだろっ!」
ビークンはニシシと歯を見せて笑う。シューヤは呆れて溜め息一つつく。
「――で、色々って…具体的に何があった?」
ふざけている後輩を無視してアリアに視線を向け事情を伺う。
アリアは一言で返した。
「犯罪者を裁いた」
「――え…?」
「そのままの意味よ」
「せんぱい、それってどういうことですか?」
シューヤは固まった。アリアのその一言だけで何かを察した。そして、薄暗くて見えていなかった頬の汚れ、それが目に映った瞬間、確信に変わる。
「…それは、敵だったのか?ただの民間人じゃないよな…?」
「ろくに訓練したことのない奴等だったわ」
「なっ…!?セルシアお前――」
「――マルメダ教徒」
「…ッ!そういうことか…」
「えっ…、えっ…?」
ビークンは未だに話に付いていけずオロオロと狼狽えていた。
「犯罪者、ってさっき言ったでしょ?」
「つまり、色々とあったと…」
シューヤはアリアの隣に立つオトノに視線を移した。そこにはいつも通りの姿。誰がどう見ても何事も無かったかのようにしか見えない。
「もしかして――」
シューヤはふとあることに気付く。が、そこで言葉が詰まってしまう。
「――いや、なんでもない…」
意味ありげな態度で仄めかすも、オトノに聞くことはせずに話をぼやかした。
「――よ、よく分かりませんが、
ビークンは一人先に歩き早く早くと促す。シューヤは二人の顔色を伺う。
「とりあえず先に行ってる。本部には連絡しておくから」
そう二人に伝え、懐から通信機を取り出しボタンを何度か押した。その後通信機を耳にあてながらビークンの元へ歩き出した。
アリアは徐にオトノの手を取る。優しく、ほんの少しの力で腕を引いた。
「帰ろう」
「…ああ」
今度はアリアが夜空を見上げ、オトノが俯いていた。
それでも歩き始めた。帰るべき場所へ帰ろうとした。
が、アリアはすぐに立ち止まってしまう。
「…、アリア…?」
アリアにぶつかりそうになる前にオトノは気付き歩みを止めた。アリアの隣に立ち顔を見やると、空を見上げたまま眉をひそめて何かを注視していた。
連られてオトノも一度眺めていた新月の夜空に目を向ける――。
「――はい。はいそうです。オトノさんが見付かりました。はい」
シューヤが通信機越しに誰かと会話しながらオトノとアリアに振り返る。
「それで現在地は南の噴水広場近く、今から二人を連れてそちらへ向かいま…す?」
振り返ると遠くで二人して立ち止まっていた事に思わず疑問を抱く。何をしているんだと思いつつ二人の所まで戻り始める。
『どうした?』
「いえ、何でもありません」
シューヤが近付くと手を繋ぎ夜空を眺める二人の姿が見えた。傍から見ればその姿は付き合っている男女のそれに勘違いされてもおかしくなかった。
(何を見てるんだよまったく…。ていうか二人ってそういう関係なのかな)
シューヤは通信機の応答を適当に済ませながら二人の眺める夜空へ顔を向けた。
夜空にはとてもとても大きな
だが月にしては光を放ってはいなかった。
三人は呆気に取られる。
満月の中から空を飛ぶ
空高くに出現した満月――
そして、さまざまな場所から水が出現しある形を成していく。それがどんどん氷付けになっていく。
瞬く間にそこに巨大な氷のオブジェが造られていく。夜空に浮かぶ巨大な城のようなものが地面を目指して。
「――ゲート」
オトノの口からは自然とその円形のモノの正体を答えていた。
アリアはシューヤの持つ通信機を奪い取り、大声で叫んだ。
「本部へ緊急連絡!王都上空にて敵軍の出現を確認!空間歪曲の
通信機に二度繰り返した後、アリアは通信機を耳元から離してシューヤに渡した。
アリアのオトノと繋いでいない手は強く握られ手のひらから血が垂れていた。忌々しげに空を睨み付けて身体中が震えだす。
どす黒い感情を言葉にして吐き出す。
「何の為に…、
アリアは決意を固めた。そして――、
「――ハハッ…!!!!」
最強が嗤った。
「ビークン!!」
他三人が付いて来ないなと呑気に考えていたビークンは、アリアの声に三編みを揺らしながら全速力で戻ってくる。するとアリアは口を開く。
「ビークン、シューヤ。私達はあいつらを殺す。殺せるやつは全員殺す。以上」
作戦とは程遠い無茶ぶりを伝えると、二人は顔を歪ませた。
「あ、あの氷のお城って敵なんですか!?」
「どいつもこいつも……はあ」
不満を口に出さなくてはやってられない、そんな心持ちだった。
「ねえ、オトノ…」
アリアは唾を飲み込んでから、罪悪感を感じつつ真剣な眼差しでオトノに向き合う。
「私達に付いて来て貰ってもいい?」
これ以上無理させたくないのも確かではあるが、彼を――治癒の
オトノは答えた。
「どこまででも行けばいい。俺は死なないから」
「本当に、ごめんなさい……」
オトノの胸に額を押し付ける。弱い自分の顔を見せたくは無かった。それでもすぐにオトノから離れて涙を拭った。
「行こう」
午後九時、メルディルの軍がストラへの攻撃を開始した。
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