第9話 嗚呼、どうして?

 時間は遡ること建国記念日の夜、秘密裏に行われていた軍のトップらによる会議。そこには目覚めたオトノもアリアに案内され出席していた。



 オトノが椅子の背もたれに寄りかかり相手をじっと見つめる。首を引いて腕を組んでいるその姿は警戒心に溢れていた。


「オトノと言ったな、君にはその異能スキルで兵士達の支援を任せたい。それほど強力な回復力、手中に…失礼。是非とも協力願いたいのだが、いかがかね?」


 目を細めてそう答えたのはストラ王国軍を纏め上げる最高責任者、タルサ・レドファール将軍。髪は色が抜け落ちて白く顔には皺が走っている。年相応の老いた印象を受けるが、相手を観察するその瞳にはどこか力強さがあり、将軍としての威厳を感じさせていた。


「協力と言われてもな。というか十四年も戦争してるのに三回しか攻められてないって、おかしくないか?」


「その通りだとも。何の目的でこの国だけを攻めてるのか、攻め込んだ場所や占領しようとした土地、全てに目的というものがあるのかすら未だ不明だ」


 やれやれと肩をすくめてテーブルに置かれたティーカップを手に取り紅茶を口に運ぶ。ゆっくりと味わい口の乾きを潤していた。


「嫌がらせとしか思えぬよ。それも国という生涯を懸けた大掛かりなものだ。だというのに、周辺諸国はまだあの国と手を切らん」


 持っていたティーカップを置く時に陶器が割れそうな高い音が響いた。


「そんな国さっさと滅ぼせば良いだろ」


「厳しいお言葉だ。鬱陶しいので跡形もなく消し飛ばしてやりたいところだ。とうの昔からな。平和条約なんて枷が無ければ本格的に戦争が過激化してるに違いない」


「平和条約って、あっちは破ってるんじゃないのか?」


 違和感の多すぎる戦争にオトノも礼儀知らずな態度で口を出す。軍の頂点であるものへの態度としてはかなり失礼なため、周囲の人間も常に顔色を伺っていたが、当の本人は特に気にする様子は無かった。


「そうだな…。では順を追って話すとしようか。まずこの戦争の始まりはメルディルからそう遠くはない東の村が侵略された、これで間違いないのだ。これに対する相手側の主張は、『ある村がストラの兵士達によって侵略された。故に我らは報復に出た。』とな」


「――実際はそうではないんだな?」


「何度も調査を行ったがそのような事件や証拠は全く浮上してこなかった。寧ろこちらの台詞だ。でっち上げでしかないのだが相手は頑なに主張し続けた。ストラが悪だ、とな」


 まるで何かに取り憑かれたようだったとタルサは語った。


「メルディルは政治・経済においてもトップの国家でな、世界的に見ても地位が高いのだ。それ故、こちらが先に破ったのではないかと考えるふざけた周辺国家も出てきた。先に襲われた上に無実の罪を着せられたこちらがいくら真実を公表してもだ」


 オトノは前髪をいじりながら言われた事を順に頭の中で組み立てていく。


「なんだか…、最初からそうなることが決まってたかのようだな」


 違和感の原因は予め作られたシナリオに沿っているようなできすぎた感じだと推測した。その発言にタルサは目を開き嬉々とした表情を見せる。


「ほう、君もそう思うか」


「何か恨まれるような事でもしたのか?」


「特別こちらから害するような事はしていないつもりだがねぇ」


 タルサは肘をテーブルにつき手を組みその上に顎を乗せた。まるで悩んでいるかのような態度を見せた。


「で、メルディルだっけか?それと周辺の国がここを狙ってるって考えていいんだな?」


「確証は無いがそう考える他あるまい。そうだとしても動機はないはずだがね。それと空間と空間を繋げる瞬間移動の異能スキルの使い手が現れここまで来れたのだ。いよいよ本格的に戦争になるのだろうな」


 溜め息をついてティーカップに手を伸ばし中身を全て飲み干した。


「勝算はあるのか?」


「知らぬであろうが、科学技術の発達の賜物とも言える兵器をブリキの玩具にしてしまうような異能スキルも存在しているのだ」


 どれだけ強い武器を使おうが、強力な異能スキルの前では無力に終わる。遠くから銃で何度も攻撃するよりも近付いて剣や異能スキルなどで一撃で相手を仕留める方が確実な場合だってある。タルサはそう語った。


異能スキルがより強い方が勝てると」


「御名答。そしてストラこちらよりもメルディルあちらの方が実力は上だ」


 だがな、とタルサは一度区切りオトノに視線を向ける。


「君のその異能スキルがあれば、その実力差を縮める事が可能だと私は睨んでいる」


「……」


 タルサは背筋を伸ばし姿勢を正す。真剣な眼差しでオトノを見据える。


「君のその異能スキルがあれば危険な訓練も可能になるだろうねぇ。ああ、勿論タダという訳ではない。仕事による拘束はあるが、こちらからはできる限りの報酬と自由を約束しようじゃないか」


「あっそ。因みに聞くが、何故兵士だけなんだ?」


「それについては私から」


 オトノがタルサに向かって質問をすると、別の方向から反応が帰ってきた。白衣を着た深紅色の髪を持った細身の男性が軽く手を上げていた。


「医療を受け持っております、名をハーゼと申します」


 会釈し手短に自己紹介を終える。


「要するにオトノさんは市民へ異能スキルを使わないのか、ということですか?」


「ああ。医療従事者の仕事が無くなるからか?」


「ええまあ、それもありますでしょう。正直なところ、それほどの速度で怪我が回復するのであればオトノさん一人でも仕事が回りますよ」


 素晴らしい異能スキルだと誉め立てるハーゼに、オトノは首を横に傾け頬杖をついてつまらなそうな態度を見せた。オトノは不本意ながらも称賛され、そのことを知らないハーゼは相手の気分を損ねないよう慎重に要点だけを述べる。


「…それもあるんですが、その治癒能力の異能スキルが知れ渡ると、何かと厄介な事がありましてね」


「治癒の異能スキルは誰も持っていないって言ったな。バレるとまずいのか?」


「ええはい。一番の不安要素が、マルメダという神を崇める宗教です。その神は治癒の力で民を癒したという伝承がありまして」


「宗教…?」


 簡易的に説明をします、とハーゼは答えた。内容は次の通りだ。



・この世界で治癒能力の異能スキルは存在しないとされている異能スキルの一つであった。

・それをオトノは持っている。

・マルメダ神は治癒の力を持つという伝承がある。そのためマルメダ教では治癒の力を神格化している。

・もし知られた場合ほぼ間違いなくオトノに何かしらの弊害が生じる。

・常に身体の何処かに傷を負っている状態を維持する事で信仰するという過激な宗教であるため、話が通じないかもしれない。



「――危険な思想だな」


 独り言の様に呟いた。その言葉は自分にも該当していたが、決して一緒にはされたくはないと感じていた。


「医療に関しては世界でどの国よりも発展しているので、私も研修として訪れた事はあるんですが、なかなか理解しかねます…。彼等にとっては普通なのでしょうけど」


「自分達で勝手に怪我して治してるってことか?なかなかだな」


「国外からも手術を受けに来る程ですね。それはともかく、彼等とは絶対関わりを持たないのが良いかと」


 マルメダという宗教の危険性を説かれたオトノは再度腕を組み静かに息を吐いた。


 ふと天井を見上げた。


(どうして俺はこんなところに…)


 聞いたこともない神や宗教、そして異能スキルという謎の力を自分が持っていることを再確認し、内心では動揺していた。

 明らかに別の世界、平行世界パラレルワールドのようなものに自分がいるという事に現実味が無く、謎は深まるばかりだった。


 そんな時でさえ、死にたいという思いは強まるばかりだった。苦虫を噛み潰したような表情を隠すように俯いて右手で覆った。こんなものさえ無ければと自分の手のひらを睨み付けた。


「――そういえば、存在しない異能スキルってどうやって決まっているんだ?」


「存在しない異能スキルというのはあくまで想像で作り上げられたものでしかないんです。研究家達が考えた異能スキルが載っている資料があるので見てみますか?」


 オトノに何枚かの紙を手渡された。


(こんな文字も知らない…)


 はずだったが、何故か読むことが、意味を理解することができていた。その困惑は顔には出さずスラスラと読み進めた。



 治癒能力、死者蘇生、腐敗、毒、物質の強度を変える、物質に魔力を込める、魔力を吸収する、相手の異能スキルを奪う、四次元空間、空間歪曲、瞬間移動、重力、原子、放射線、洗脳、心を読む、透視、未来視、過去視、時間、―――。


 一枚一枚にびっしりと概要のようなものが記載されていた。


「治癒能力、それと瞬間移動と空間歪曲が合わさった物が今日確認されたわけですから、本当に実在する可能性もあり得るんですよね」


 そんな声を掛けられるが、オトノは特に反応を示さず無言で資料を読み下す。そして全ての項目に目を通し終えると資料をハーゼへ返した。

 それと同時にオトノは質問を投げた。


「…自分の異能スキルはどうやって決まるんだ?」


「遺伝等は関係なく法則性なども見つかってません。どうして一つだけしか持たない人や二つ三つと複数持つ人がいるのかも分かってません。ただ、発現している人が極めて少ないレアな異能スキルがあるということくらいですかね」


「つまり何も分からないのな」


 ハーゼは首を縦に降った。


「そういう異能スキルは強力であるが故に目を付けられます。いつか知られてしまうとしても積極的に隠し通すに越したことはないです」


 真剣な眼差しでそう語った。嘘偽りのないその表情は善意に満ちていた。


「……」


 ここで誘いを受けることと、断った場合にその面倒な存在と出会った際の厄介事を頭の中で天秤に掛けた。


 十秒程度経過した後、オトノは深呼吸し分かったと告げた。


「治すのは兵士、今はそれでいいんだな?」


「!! はい、とても助かります!」


 ハーゼはタルサへ喜色満面の笑みを向けた。タルサもそれに静かに頷きを返し今度はオトノへ顔を向けた。


「無理をしない程度には頑張ってくれたまえ。体は資本と言うからな」


 立ち上がり、手を差し出した。オトノは皺が走った手と握手を交わした。


「機会があれば、での話も聞かせてくれるかね?穏やかになった時にでもな」


「……いつか、な」


 オトノの口は何かを噛み砕くかのように強張っていた。











 頭から降り注ぐ業火の中。否、天地を逆転した体勢で鎖で縛り付けられその身を焼かれているオトノは、そんなことを泣き叫びながら走馬灯のように思い返していた。絶叫は地下室にうるさいほどに響き続けた。


 涙もすぐに蒸発し息もすることもままならない。やがて声を上げることもできずに苦しみを味わいながら、この宗教の恐ろしさを軽視していたことを酷く後悔した。


 そして、地獄のような苦しみを幾つも味わい、更には燃え続けても死ぬことができない自分の異能スキルへの憎しみが最高潮にまで達した。




 死にたい。死んでほしい。なのに何故、死ねない?


 痛い、痛い。熱い、熱い。こんなにも苦しくて辛くて、心はとっくに折れているのに、魂が悲鳴を上げてるはずなのに。


 嗚呼、どうして?


 どうして死なない?なんで生きている?誰が頼んだ?治せと願った?苦しむために生きてるのか?



 地獄のような苦しみの中に慣れてしまったのか、どんどん思考が加速する。痛みを忘れるにはせざるを得なかった。



 幸せになろうと考えたことは何度もあった。幸せだったことを思い出せば、辛くても頑張れるって。


 ああ


 でも、もう思い出せなかった。思い出そうとすると、嫌な記憶だけが何度も何度も甦り、幸せは何もかも忘れてしまった、そう錯覚してしまう程、思い出が見付けられなかった。


 誰か


 もう誰か、殺してくれ。誰でもいいから、殺してくれ。痛くても苦しくても、どんなに気分が悪くなるようなことがあっても、死ぬ事ができるのであれば、喜んで殺されよう。



 生きること。ただそれだけの地獄からの解放を求めるように強く願った。




 助けて




 その言葉が声に出ていたのかオトノには分からなかった。この願いもどうせと叶わないのだろうとオトノの瞳は世界を見ることが嫌になり、ゆっくりと閉じていく。



 視界が闇に覆われて、黒く染まる。どこまでも続く深淵へ落ちていくかのようだった。


 何も見えなくなるほどに瞼が落ちた、その時だった。






























「オ………トノ………?」































 かき消されそうなほど小さな言葉が、闇よりも暗い絶望で満ちた世界を照らす一筋の光のように響いた。


 その声の主は、瞬く間にオトノの目の前に現れていた。がむしゃらに近付いて、炎の中でも火傷を負うことなど構わず黒い鎖の拘束を剣で断切し、人とは思えない熱量を持ったオトノを抱き締め、すぐにその場から離れた。


 焼き焦げた艶やかな金髪や火傷によって赤く変色した白い肌は、オトノの異能スキルによってその美しさを直ぐに取り戻していく。オトノも手首足首を鎖できつく縛られ血が流れていたが傷口は何度か瞬きをする間に無くなっていた。


 オトノの閉じかけた瞳がゆっくりと開く。




 オトノを支える手が、腕が、全身が震えだす。


「あぁ……、ああああぁ…!!」


 アリアが、青藍色の瞳から大粒の涙を流しながらオトノを見て後悔していた。身体に傷一つ無いオトノのを見て泣いていた。


 オトノの瞳は無機質めいていながらも美しかった。澄んだ瞳はまるで宝石のような漆黒だった。なのに、その瞳には何も映っていなかった。


 枯れた花に美しさを感じるそれが今まさにアリアの目の前にあった。生あるものは例外なく死へと向かう命の儚さが、枯れているからこそ美しいと感じてしまうような、純水のように純粋な死がそこに表現されていた。



 黒一色のその瞳を見てしまったアリアの記憶の奥底からある言葉が這い出くる。



        目には命が宿る。



 その言葉が何度も繰り返されて、離れなかった。




「――嗚呼、どうして?」


 信じられないという風に弱々しく呟いた。そこにいつものような笑顔は無く、哀しみに満ちていた。


 薄暗い地下室の中でオトノは目を凝らし自分を抱き抱える人物を探る。


(―――だれ…だ…)


「オトノ……ごめんなさい……」


「…………っ、アリア……?」


 泣きながらオトノを優しく抱き締めていた。お互いの鼓動が感じられる程に近く。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…。私のせいで……こんなことに…」


 まるで懺悔するかのようにオトノへ何度も謝罪を口にする。


「あの時私が連れ出さなければ…、オトノが傷付くことは無かったのに……」


「……」


 オトノはただただ不思議でしかなかった。


 何を見て自分に謝るのか、オトノにはまるで分からなかった。



 そして知らなかった。オトノ自身も涙を流していたことを。自分の顔がどれほど歪んでいるのかを、理解していなかった。



 お互いの心情を知らぬままアリアは独り言を続ける。


「――のせいで、私の…せいで……。私の……」


 自分を責め立てる声が途切れ途切れになっていく。






「私のせい……?」






 ふと自分の発言に違和感を持った。オトノから離れ片腕で支えたまま数秒間、アリアは呆然とする。流れていた涙も止まる。瞬きも忘れて深呼吸を繰り返す。


 そんなアリアに、声が掛かる。


「一刻も早く、気高き我等が主から離れなさい。小娘」


 黒い鎖――鎖の異能スキルを発動し、手に持ち地面へ垂らしている女性がアリアに警告を発する。その鎖はオトノに付けられていた物と同一であった。


 目くじらを立てて怒りの籠った声で言ったにも関わらず、オトノとアリアは目も呉れない。女性は今にも掴みかかりそうになるが隣に居た男性に抑えられる。


「ッ!あなた!」


「まあまあ落ち着いて。全て試しても彼はこうして生きているんだ、生まれ変わりに間違いない。主の前で不敬な態度を取るわけにはいかないよ」


「っ、…そ、それもそうね」


 茶髪の男性――オトノが治してしまったマルメダ教徒の男性は妻を諭す。落ち着きを取り戻し夫婦は二人に視線を戻すと先程とは様子を激変させたアリアの姿があった。






「――違う違う違う違う違う……、違う違う違う!!!!!」






 アリアが大声で叫ぶ。剣を持つ手の骨格が露になる。


「私のせいなんかじゃない…!私が不幸なのも…オトノが苦しんでいるのも…!全部全部、全部お前らのせいだ!!」


 怒髪天を衝く勢いで叫び続ける。顎に力が入りギリギリと歯軋りをしながら鋭く睨み付けていた。


異能スキルなんて持った気持ちの悪い奴等が!!!」


 オトノを苦しめた夫婦二人に対して声を張り上げたアリアは、抱き抱えているオトノをゆっくりと床に寝かせる。



「アリア…?」


「…少し待っててね、オトノ。ふふっ」


 身体に力が入らず立つことさえ出来ないオトノに微笑む。涙で目元が赤くなっていたまま立ち上がってオトノに告げる。











「――邪魔者、殺してくるから」











 直後、アリアは剣を握り締め地面を強く蹴った。真っ直ぐに狂信者の夫婦に向かっていく。


 それを見て男性は後ろへ下がる。女性は黒い鎖を両手に一つずつ持ち勢いをつけてアリアに投げ付ける。ジャラジャラと音を立てて鎖は交差しながら進む。腰の辺りから10センチほど離れた所に二つ、魔方陣のようなものがあり、そこから鎖が出ていた。


 アリアは向かってくる鎖を剣で上に払いのけ、追撃で飛んでくる鎖を右斜め前に跳んで躱す。右手を床に着き飛び込んだ身体を支え勢いのまま一回転し女性の横を素通りした。


 アリアが狙っていたのは男性の方だった。


「あなたっ!」


 それに気付いて女性は慌てて振り返る。そこには男性に斬りかかるアリアの姿があった。


 剣が目にも留まらぬ速さで迫るが、男性は目を瞑り息を大きく吸い込んでいた。そして目を大きく開きアリア目掛けて口からを放った。




「あああああああああっ!!!!!!!!!」




 爆発音が地下室に鳴り響く。



 その正体は音を操る異能スキルだった。声を魔力によって変化させ方向を指定し自由に調整する。遠くに離れた相手に声を届けたり、爆音と共に超音波を発生させる異能スキルである。また、音を遮断する結界を作ることも可能である。



 部屋の中の照明はガラスが割れ明かりが消える。医療器具――自傷行為に用いる道具などは振動による余波でガチャガチャと揺れたり罅が入った。

 ただでさえ薄暗かった部屋は更に暗くなる。


 室内であるせいか音がよく反響し合う。一番遠くに居たオトノでさえ耳が痛くなるほどだった。


 発生源の近くに居れば、鼓膜が破れるだけでは済まされない破壊力を持っていた。


 男性は目の前いたアリアの状態を確認しようとする――。




 男性の視界にアリアの姿はどこにもなかった。




「――え?」


 男性はアリアを見失った。数秒前までいた目の前の人物が消えた。思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。


 それに対して耳を塞いでいた女性は張り裂けそうな声で叫んだ。


「後ろよ!!!」


 後ろ…。


 後ろ?。


 後ろと言われて男性は一瞬その言葉の意味が理解できなかった。背後には壁しかない。その間には何も存在しない。


 そう思い込んでいた。


 女性の叫びからコンマ数秒遅れて、男性は首の後ろに冷たい殺気を感じた。


 男性はピタリと静止する。その殺気が男性の全てを


 手も足も、目も口も、茶色の髪も、心臓もありとあらゆる臓器も、全ての活動が一瞬で凍ったかのように動かなくなった。


 そして、一瞬にして凍った男性は一瞬にして解凍する。


 喉が締まり冷や汗が流れる。


 目の前の妻の口が徐々に開いていき驚愕の表情へ変わっていく。



 異能スキルを使用してから今に至るまで数秒にも満たない時間だった。



 口の中の唾を飲み込む暇さえなかった。


 男性は振り返ろうとした刹那、首に、首の中に氷のような物が通過する感覚が走った。



「――べぃ…」


 男性は反射的に異能スキルを使おうしたが、本人でも出したことの無い音が出るだけに終わる。


 男性の視界は床に落ちていく。その間も目はギョロギョロと後ろを見ようとしていた。



 ドンッ



 爆発音よりも遥かに小さくて鈍い音が鳴った。




 アリアは男性の首を切り落とした。


 芸術的ともいえるほどに綺麗な切り口の円柱ができあがっていた。次第にその断面から血が溢れだし、直前に落とされた頭に覆い被さるように首なしの彫像は前に倒れた。


「あぁ……、嘘…だ…」


 女性は思わず床にへたり込む。手を口に当てて震わせる。


 目の前で夫が殺された。そう理解しオトノへ振り向いた。


「尊き崇高な我等が主、マルメダ様!!どうか、どうかこの者に癒しの力をお与え下さい!!!どうか…!お願いします…!」


 女性は態度を一変させて土下座し地面に頭を擦り付ける。


「……」


 オトノは何も言わなかった。そして、不思議と目の前の人物が死んだことに特別



 とても、不思議だった。



「どうか……、どうかぁああ……」


 女性はみっともなく泣きすがる。次第に夫の死をただ嘆くだけに変わっていく。




 感傷に浸る時間は与えられなかった。


 無慈悲にも、背後から突き刺しやすい体勢になっていた。


「あああぁぁ……」


「……」


 アリアも、言葉を発することはなかった。ただ強く、柄が壊れそうなほどに握り締めるだけだった。



 ダンッ



 心臓目掛けて剣を突き立てた。剣は身体を貫通し床に釘付けになり止まった。血が勢いよく吹き出しアリアの頬を汚す。


「あっ……あっ……」


 女性の身体がブルブルと痙攣し呻き声を上げる。アリアはその頭を踏みつけて地面に密着させ声を止ませ、これでもかと足に体重を掛けて剣を引き抜いた。




 絶命を見届けたアリアは剣に付着した血を勢いよく振るい落とし手の甲で頬の血を拭う。


 その手に付いた血を口に近付けて、嫌な顔をして舌で舐めた。



 その味は、やはりアリアの予想通りだった。






「――ああ、不味い」






 不愉快そうに死体を見下し、床に溜まった血を避けてオトノの元へ歩いて行く。


「待たせちゃってごめんね…、オトノ」


 謝罪を述べて、オトノに笑顔を見せた。あどけないその表情には、哀しみの色が隠せなかった。

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