目覚まし時計の話

大野葉子

目覚まし時計の話

「では、どうぞ。」

「では、いただきます。」

 目の前の細身のグラスには紅茶色の液体。初めて目にするそれに加奈かなはおそるおそる口をつけてみた。

「あ、美味しい。」

「でしょ。」

 さっぱり爽やかな口当たりのそれは見た目を裏切らない紅茶の味がした。それに加えて甘みや酸味を感じる。

 ダージリンクーラーというカクテルだ。

「これお酒なんだ。言われなければわからないかも。」

 アイスティーと言われたら信じ込んでしまいそうな気がする。

「そんなに強くはないけどお酒だよ。甘過ぎないしガツンと来るお酒でもないし、少しだけ飲みたいならこういうのかなと思って。」

 上機嫌で解説するのは友人の沙耶さやだ。

「ありがとう、これなら飲める。」

「どういたしまして。こっちも美味しいよ。」

 沙耶の飲んでいるのはピンク色のカクテルでいわゆるカクテル・グラスに入っている上品な見た目のものだが、度数はちょっと高いのかもしれない。オーダーの際に「勧めない」と沙耶に言われた。日頃酒を飲まない加奈にはそのあたりのことはわからないので素直に従っておくことにした。

 繁華街のバーの一角。

 外はまだ寒い時期だが店内は十分に暖かい。これから酒が回ってくれば身体もぽかぽかしてくるのだろう。


「引っ越しはいつなの?」

 沙耶の問いかけに加奈は中空を睨む。

「春分の日あたりかな。引っ越し屋さんを頼まないから、まだ適当な感じ。」

「今予約取れないらしいもんね。」

「それにすごく高いらしいね。」

「そうなんだ。」

 四月からの新生活。学生専用マンションを出て就職先近くの賃貸マンションへ引っ越す予定の加奈は現在部屋の片づけに追われている。

 部屋で過ごした四年間でそんなにモノを買ったつもりはなかったのだが、服や本の類は少し増えている。教科書等、買わねばならないものもあったのである程度は仕方ないが、一人暮らしのスペースの中で要不要を選別して必要なものかつすぐに使わないものから段ボールに詰めていく作業はそれなりに大変だ。

 その作業と、まだ続けているアルバイトのシフトの間で沙耶に会うことにしたのは、卒業前に会えるのはこれが最後だろうと思ったからだ。

 紅茶の味のカクテルを一口飲むと、加奈は口を開いた。

「就職したら遊ぶ時間なくなっちゃうし、朝も早く起きなきゃいけないし、四月からのことを考えると憂鬱だな。」

 ははっと沙耶が笑う。

「大学が特別だったんだよね。朝起きなくていいとか天国だった。」

「夏休みも冬休みも長いしさ。こんな時間二度と戻ってこないのかと思うと辛い。」

「いやわかんないよ?さっさと結婚して専業主婦になっちゃえばずっと家にいられるじゃん。」

「主婦だったら家族のご飯作ったりするのに朝起きるじゃん。」

「そっか!」

 朝早く起きるのは確かに辛い。

 でも、加奈がもっと辛いのはたぶん、思い立ったときにこうして沙耶と飲み食いしながらくだらない会話をすることができなくなってしまうことのような気がしている。

 そう思えるような友人を作れたのは学生生活の宝だったと後で振り返って思うのだろうか。

「加奈、これあげるよ。」

 沙耶が笑いながら可愛らしい紙袋を差し出してきた。

「荷物になるかなと思ったんだけど。」

「え?何なに?ありがとう。開けていい?」

「うん」

 紙袋の中には茶色のリボンで封がされた赤い不織布のラッピングバッグ。

 リボンをほどいて袋を開けると…

「目覚まし時計って、ちょっと何コレ!?」

「いい音するよ、もらってよ。」

 沙耶はくすくすと笑っている。

「ええーそりゃ確かに朝苦手だけれども…。」

 加奈が困惑していると沙耶はいたずらっぽい笑みを浮かべたまま、

「ちょっと遅くなっちゃったけど誕生日おめでとう。今日来てくれて嬉しかったよ。このまま会えなくなったら寂しいなと思ってたから。」

 それだけ言うと脇によけてあったメニューをひょいと手に取り、開いて視線を落としてしまった。

 暗い店内のこと、顔を上げようとしない沙耶がどんな表情でいるのかは読み取れない。

 だが、自分だって新生活に向けて忙しいこの時期に目覚まし時計ひとつのために自分を誘ってくれる友人の気持ちはわかるつもりだ。

「ありがとう。これ使って頑張って起きるね。」

「うん。」

 沙耶は顔を上げずに返事をした。


 ***


 その日もリーンリーンとけたたましい音が加奈に朝の訪れを知らせた。

 年季の入った目覚まし時計はこの二十年の間に脚が折れる、塗装が禿げる等のトラブルに見舞われつつも時計部分とベル部分には不具合なく今日を迎えている。

 今日の加奈は忙しい。

 とにかく朝一番で洗濯機を回して朝食を摂ったら身支度を整えて八時の電車には乗らないといけない。

 朝食のパンを飲みこみ、洗濯物の山をなんとか捌き、噴き出た汗を拭って紺のドレスに身を包む。慌ただしく顔に粉をはたいて日頃縁遠くなったアクセサリーを着け、スプリングコートを羽織ってバッグをひったくるように持ち、ラメの入った靴を履く。

「あぁ!指輪忘れた!」

 慌てて靴を脱いで結婚指輪を取りに戻ると、少し朝寝坊だった夫が寝室から起き出してきたところだった。

「ああ、おはよう、ごめん、もう行くね!夕方には帰ってくるつもりだからね!」

「ああ、ゆっくりしてきていいからね、慌てないでいってらっしゃい。」

 夫はむくんだ顔に穏やかな笑みを浮かべて手を振ってくれた。

「いってきます!」

 もう一度靴を履いて玄関を出る。鍵をかけて、門扉の外へ。

 電車の時間はもうギリギリだ。

「ううー五時半ではダメだったか…。」

 早歩きと小走りの中間くらいの速度で移動しているとせっかく拭った汗がまた噴き出してくる。まだ三月だというのに今日はなんだかやたらと暑い。

 しかしながら今日は晴れて暖かいに越したことはない。晩婚となった友人の結婚式なのだから。

 かつて彼女の贈ってくれた目覚まし時計のおかげで、ギリギリ遅刻せず彼女に「おめでとう」を伝えに行けそうだ。

 加奈は駅までの道を懸命に歩き続けた。

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目覚まし時計の話 大野葉子 @parrbow

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