第76話 水の中



 あら?……私、どうしたのかしら?


 ベットに眠る自分の姿を上から見下ろしながら、志保はそういえば昔、これと同じようなことがあったなと、高校生の頃に見たのと同じ光景を目にし、自分に起きたことを思い返していた。


 すると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。


「志保ちゃん、どうして、どうしてこんなこと……」


「お母さん、落ち着いて!ちょっと落ち着いてよ」


 ああ、伯母さんと未来だ。そうか、ここ、未来の働いている病院なんだ。


 ピンクのナース服を着た未来がそこにいて、伯母が私の身体に縋りつくように泣いていた。


「杉田先生、正樹さんが亡くなった時のこと覚えていないそうで、最近、私たちがお世話になっている学校の上司が亡くなりまして、それで正樹さんのことを少し思い出したようで、そこに行けばもっと思い出すかもしれないと言って、今日、清瀬川に向かうということでした。私はそれを聞いて、仲良しだった正樹さんが亡くなった時のことを思い出したときの杉田先生が心配で、それで来てみたんです。そしたら……」


 沙絵はそこまで話すと、志保が飛び込んだ時の光景を思い出し、全身を鳥肌が覆い、ブルッと震えた。


「杉田先生が川に飛び込んだのが見えて、慌てて橋から覗き込んで……私、相当取り乱していたようで、車で橋を通りかかった方がいて、私の様子が変で声を掛けてくださったみたいです。どう説明したのか、私もよく覚えていないんですけど、その方が川に飛び込んでくださって、同乗していた女性の方が救急車を呼んでくださって……」


『落ち着け、落ち着け』と、沙絵は目の前でベットに横たわる志保の姿を目にして、落ち着くように自分に言い聞かせながら、動揺する心を鎮めることがなかなかできずにいた。


「志保ちゃん、正樹のこと、まだそんなふうに思っててくれたんだね。もう30年以上前のことなのに。だからって、どうして川に飛び込んだりしたんだろうね……」


「お兄ちゃんを追いかけようとしたとか……」


「バカなこと言うんじゃないよ。正樹が死んだのは、もうずっと昔のことだ」


「お母さん。昔のことじゃないでしょ……」


 今でも毎晩、写真の正樹に向かって語り掛けていることを知っていた未来は、つい口からそんな言葉が出た。


 昔のことじゃないじゃない。


 ベットの志保に縋りつきながら泣く母の姿を見つめながら、未来の頬を一筋の涙が零れた。お母さんだってそうなんだから、志保ちゃんだってきっと……お兄ちゃんのこと、ずっと心の中にあったんじゃないかな。


 自分の知らない過去の話を幾度となく両親から耳にすることがあった未来は、兄の正樹が亡くなった時、その場に志保もいたことも知っていた。そして、当時それを忘れてしまうほどの衝撃が志保にあったことを考えると、志保はその時のことを、忘れていたその瞬間のことを思い出したに違いない。


 それが、志保にどれだけの衝撃を与えたのかを思うと、兄の死に志保は何かしら関係があったのだろう。


 それを思い出し、志保は川に飛び込んだ。


 もしかしたら、あの時、志保にも見えたのかもしれない、いつも心の奥底にいた、兄の正樹が……


『志保ちゃん、そうであっても不思議じゃないよね』


 未来もまた、志保と同じ血が身体に流れていた。少しだけ、見たり感じたりすることができたのだ。


 未来はそこにいる志保に、心の中で語り掛けた。



 ああ、そうか。私、浅羽の家に行って、それから清瀬川に行ったんだわ。それにしても、沙絵さんが清瀬川に来ていいたなんて、全く気付かなかったわ。でもそのお陰で、私、助かったんだわ。よかった。


 それにしても……


 志保は自分が目にした光景を思い返しながら、あの時、何があったのかを自分なりに読み解いてみた。


 マー君が亡くなった原因は、自分にあった。そのことを、あの岩場に立って下の川面を目にした瞬間、そこにいるマー君を目にした瞬間、思い出した。


 私が浮き輪に向かって飛び込んだ時、私の足は浮き輪の中ではなく、マー君の真上に落ちて、マー君は私と一緒に深い川に沈んだ。私はすぐに浮き上がり、足がつかずに怖くてもがき、流れなどないと思ったその緩やかな川面も、その中には流れはちゃんとあって、もがきながらもなんとか岸にたどり着いた。


「マー君、マー君」


 いくら呼んでもその姿が見えない。


 志保は正樹を探そうと立ち上がろうとしたその時、胸の中から何かがせり上がる感じがして、思い切り吐いた。飲み込んでいた大量の水を一気に吐いた瞬間、息が止まるほど苦しく気が遠くなり、意識を失った。


『マー君、ごめんね。こんな大事なこと忘れてて、本当にごめんね……』


 今日、川の中からマー君が私を見上げていたその顔を思い出しながら、助けられなかった正樹に詫びた。


 それにしても、さっきのあれは何だったのだろう。


 志保は自分がした不思議な体験を思い返した。


 川の中に健太がいた。もう会えないと思っていた健太が。……でも、健太が2人。


 いいえ、健太が2人じゃない。健太は健太の向こう、光の筋から現れた。私を抱えて行こうとしたのは、あれは桑田さんだわ。桑田の存在を認識し、その名を呼んだわけでもないのに、桑田の声が聞こえた。何故?


 ああ、きっとまだ完全に向こうに行ってしまう前だった。だからなのか……


 私には彼が健太に見え、その手を取ってしまった。


 そして桑田に抱えられたまま、気が遠くなっていく私は、どこかに落ちていく瞬間、その向こうから現れたもう一人の健太、その健太が本物の健太だと私にはわかったんだ。


 理由などない。理屈じゃない。あれが健太だと、私にはわかったんだ。ずっと一緒にいた健太だと。そして健太の伸ばす手が、私が伸ばす手に、その互いの指先に……もう少し、もう少しで、と、触れた、のだろうか?


『健太、健太、健太……』


 何度もその名を呼び続けたが、健太がいない。


『健太、どこ?健太、健太……さっきは会えたのに、健太、健太』


 志保はその名を呼びながら、健太の姿を探そうと、部屋を出て行った。


 そしてその時、「志保ちゃん。志保ちゃん……」そう呼ぶ未来の声など、志保は聞こうとすらしなかった。

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