第77話 日常



 沙絵はその出来事があって、それからの子供たちの夏季休暇の間中、全ての有休を使い切って、自分も休んでいた。


 その日の朝、あの日以来のいつもと同じように、ぼんやりと窓の外から時折聞こえる車の音や話し声、何かを刈るような音を聞くともなしに聞きながら、ふと、壁にかかるカレンダーを見た。


 毎日、ただノルマのように過ぎていく日時に×をつけていたそのカレンダーが、今日が8月31日だと告げていた。


 沙絵は心の整理がなかなか付けられずにいたのだが、それを見て、明日から2学期が始まる。そう思った瞬間、目が大きく見開き、スイッチがしっかりと入ったように身体に力が漲る感覚がやってきた。


 パッと見開いた目は、頭の中で子供たちがいる教室の光景に切り替わり、「あ、行かなきゃ」と呟くと、顔を洗い、身支度をしながらお湯を沸かすと、生姜湯を作り、冷蔵庫の中から一昨日心配した母が買い込んできた食糧の中からヨーグルトを取り出して深皿に出し、バナナをカットしてハチミツとナッツを和えて、それらをお腹に入れた。


「美味しい」


 意識を持って口に運んだそれらは、久しぶりに物を食べたような気がして、空っぽの胃にしっかりと治まった感じがした。


 実際には、自分を心配して毎日顔を見せる母が用意してくれるものを食べてはいたのだが、沙絵にはただ口に物を運ぶという感じで、食べているという感覚がなかったのだ。


 明日子供たちが登校してくる。


 そう思った瞬間、不思議なもので、止まっていた沙絵の時計は、しっかりと動き出したのだ。


 明日の準備のため学校に行くと、数人の先生方がやはり準備に来ていた。


「友井先生、お身体はもう大丈夫ですか?」


 沙絵の顔を目にして、真っ先に駆け寄ってきたのは、心配が顔に張り付いた教頭だった。


「ご心配おかけしました。もう大丈夫です。すみません、ご心配おかけしました」


 桑田先生のことがあって、またこんなことが起きて、自分のことでも随分と心配をかけさせてしまったんだろうと思うと、なんだか申し訳ない気持ちになった。


 教頭とのやり取りに、シーンとなった他の先生方も耳を傾けていることに気付いた沙絵は、そちらに顔を向け、目の合った数人に向け、軽く頭を下げお辞儀をした。


 何があったのか、だいたいのことはみんなの耳に入っていたようだ。


 何があったのか……それは、実際に起きた現象だけが、みなの知ることになっただけだろうが。


 沙絵はカバンを持ち教室に向かった。


 まず、いつもやっているように、黒板に子供たちを迎え入れるための絵を描いた。ランドセルを背負った男の子と女の子が、お花畑でてんとう虫や蝶と戯れている絵で、黒板の上の方には、(2学期も元気で楽しく仲良くね)と文字を書き、それを見て喜ぶ子供たちの顔を想像して、沙絵の顔からも笑みが零れた。


 その瞬間、なぜか涙が一筋流れ落ちた。


 教室を見渡すと、夏休み中に業者が入って綺麗に掃除され整理された机と椅子が、綺麗すぎる並び方をして、むしろその綺麗さは機械的に見え、明日の子供たちの登校が生を持って打ち破ってくれることが待ち遠しくあり、「ああ、いつも通り」と、戻ってきた自分の感情に、ホッとしていた。


 教室を見渡している最中も、意識の中にそれはあって、写り込む視覚を意図して外していたけれど、いつも通りなんだから気にすることないわ。元に戻しておこう。もう、いらないよね。


 そう思って、壁にかかる鏡を意識して見た。


 校長室の前にかかっていた鏡は、まるで最初からここにあったように、不思議としっくりとそこにかかっていた。それを異質なものと捉えた自分の心が、ここにあることを元通りとは思えなくしていたのだ。


「あっくん、近くにいるの?……やっぱり私には何も感じることはできないし、見えないわ」


 沙絵はそこまで行き、その鏡の正面にあるはずの窓枠の鏡に顔を向けると、そこに鏡はなかった。


「あら?どうしたのかしら。あっ、そうか、窓とカーテンのクリーニングもあったんだわ。きっと業者の人が外したのね」


 でも、どこにやったのかしら。あれは杉田先生の鏡なのに。職員室に届いていないか、あとで教頭にでも聞いてみよう。


 そう思いながら、沙絵は自分にとっては異質の、その壁にかかる鏡を取り外し、元あった場所にかけ直そうと、教室を出た。

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