第75話 清瀬川5
「しーちゃん、大丈夫だよ~この輪の中に飛び込めばいいから。しーちゃん早く~~飛びなよ~気持ちいいよ~」
正樹のその言葉に、志保は岩場から身を乗り出し、その浮き輪の輪の中を見下ろしたが、その瞬間、身体中に電気が走ったように何かが背中を駆け上がると、「こわいっ」と思い一瞬目を閉じた。
ミンミンミンミンシャンシャンと、たくさんのセミたちの泣き声と、真夏の太陽に焼かれ日焼けした肌からは、汗が流れ落ちているのに、その肌には大量の鳥肌が立っていた。
胸の鼓動は鳴ったまま、震える身体を抱えいつまでも目を閉じているわけにはいかず、志保はその目を開けて川面に目をやった。
「あれ?マー君?マー君?」
正樹を探し岩場から川面を見下ろした志保の目には、たっぷりと水を湛えた青く綺麗な、緩やかな水がそこにあるだけだった。
強く肩に入っていた力が抜けると同時に、身体の震えも治まリだしていた。
ああ、そういえばあの日もこんな感じの川だったなと、太陽を反射しキラキラと光る水を見ていると、その中で何かが蠢いたような気がした。
それはアメンボが作る小さな波の揺らぎように、揺れて消えた。
「あの日、私はここから川に向かって飛び込んだんだわ。すごく怖かったけれど、マー君が下で待ってて、浮き輪もあって、そこに飛び込めば大丈夫だと思って……そう、マー君に呼ばれて飛び込んだ。その時、私の足は浮き輪の中じゃなく……」
志保の胸はドクンドクンと大きく跳ね上がるように鳴り始め、大きく上下する肩と胸を抑える間もなく、志保は川面に向かって叫んだ。
「ああ、あああ……マー君、マー君、マー君……」
その声は涙となり正樹を呼び続けたが、正樹の姿は見えない。
「マー君、マー君、マー君……」
涙の流れは川面の揺らぎと重なり、けれどその川面はただ静かに水を湛え、青い空を映したその川面の下に、……それはいた。
「マー君」
川面から、まるで青い天を押し上げるように飛び出した小さな手の平を志保は見た。
「マー君、マー君……ああ、ダメ、マー君……溺れちゃう」
飛び出た手の平の持ち主は、川に沈んだまま空を見上げ動かない。
「ああ……助けなきゃ。マー君を、今度こそ……」
志保に迷いはなかった。
一瞬の躊躇もなく、志保はそこに向かって、岩場からジャンプし、そこに沈む正樹に向かって飛び込んだ。
「ああ、あああ、杉田先生、杉田先生……ああ、どうしよう、どうしよう……なんで、なんで……なんで……」
沙絵は橋の上から河原にいたはずの志保の姿を探していた。
つい先ほどまで河原にいたはずなのに、どこにいったんだろうと見渡していると、いつの間にどうやって上ったのか、橋のすぐ横、川との真ん中辺りに飛び出した岩場にいる志保を見つけ、その様子がどうもおかしいなと思いながら、志保の様子を窺っていた。
そして、その行為は唐突だった。志保がいきなり川に飛び込んだのだ。
橋の上から見ても、そこの深さがわかるような水の色は、濃く青く水を湛えていて、流れが止まっているように沙絵には見えた。
そこに志保が飛び込んだのだ。服のまま、何かを叫びながら。
「杉田先生、杉田先生」
沙絵は橋の上から大声で志保を呼んだが、志保はまだ浮き上がってこない。
「ああ、どうしよう。どうしよう。杉田先生、杉田先生」
橋の欄干から身を乗り出すようにして、沙絵は志保を呼び叫んだ。
いつの間にかTシャツの首元から飛び出していた、沙絵の首からかかる懐中時計の裏側の鏡が太陽の光を受け光り、その光までもが志保を探すように川面に吸い込まれて行った。
「マー君、マー君」
志保は水の中で、そこにいたはずの正樹を探したが、正樹の姿はどこにもない。
マー君、マー君、どこ?私は確かに見た。ここにあった正樹の手の平、一度はそれを掴んだはずなのに、いつの間にかそれは志保の手をすり抜け、『……苦しい』
「ハァハァッ……んっ」
川面に顔を出し、息を吸い込もうとした瞬間、誰かに足を掴まれ水の中に引き込まれた。
志保はそれが溺れているマー君だと思い、また川の中でもがきながら正樹を探した。
『し……ほ……し、ほ……』
「えっ?」
志保は誰かに呼ばれた気がして、川底に向けていた視線を上に上げた。
『し……ほ、志保……志保、志保』
「けん、た?……健太、健太……どうして……」
志保は自分の目を疑った。
けれど、そこに見えるのは間違いなく健太だ。
「健太、健太……会いたかった。健太」
水に揺らぐ健太が志保に向けた目は優し気で、志保は健太が伸ばす手を掴もうと、背を光に神々しくそこにいた健太に手を伸ばした。
『しーちゃん』
「マー君?」
『しーちゃん、しーちゃん、ちがうよ……ちが……』
えっ?マー君?マー君の声が聞こえる。……聞こえた。マー君……マー君……
一度も聞こえなかったマー君の声が聞こえたことにハッと気づいた志保は、心の底から正樹がもうこの世にいないことを理解した気がした。
くるしい……く、るし、い……
気が遠くなるほどの苦しみの中で、志保は青い方を目指して浮き上がろうとした。
その瞬間、志保の身体は健太に包まれ、深く濃く暗い方に向かって、健太と共に落ちて行くその瞬間、その健太の向こう、川面から落ちてきた一筋の光の中に、もう一人の健太を見た。
『志保……こっちだ……志保、そこに行っちゃダメだ。こっちへ……志保、志保』
「えっ?けん……た?健太、健太」
その声に戸惑い、自分の身体を包み込む健太に目をやると、その健太は悲しそうに微笑んだ。
違う。
志保は、健太の背の向こう、光の中から手を伸ばす健太に、必死に手を伸ばした。
「健太、健太、健太……健太、健太……」
健太が伸ばす手と、志保か伸ばす手が、その指先が触れる、もうすぐ触れるその瞬間、
『しーちゃん……しーちゃん……しーちゃん……』
それと同時に、その耳には、ひたすらその声が呼ぶ自分の名が、聞こえては消え、聞こえては消え、消えた。
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