第70話 お墓
水道のある左側から上に向かう坂道に足を進めると、お寺の裏側の山の斜面に墓が広がっている。そのいくつかには、まだ新しい花もあげられていて、心がほんわかとなる。
「そうだ、ここは誰かにとって大切な人が眠る場所なんだ」
沙絵は、改めてここは怖い場所なんかじゃなかったことを感じた。
緩やかな坂道を進んで行くと、中腹に沙絵の実家の本家の墓が見えた。通りすがりに「今日は違うよ」と声を掛けながら通り過ぎた。子供の頃、母から「ついでのお参りはしちゃいけないよ」と言われたことを覚えていたのだ。
「仏様が、身内が来てくれたと思って喜んだのに、ガッカリさせるといけないからね、今日は違うよって言ってあげるんだよ」
不思議なもので、子供の頃に聞いた言葉でも印象深いものは覚えているものだなと、思わずクスリとした。
それにしても、母は祖母から聞いたんだろうその言葉も、今にして思えば、亡くなった人がこの辺りにいるということは、みながごく自然に受け入れていたことなのかもしれない。
いや、見えない人たちは、大切な人がここにいてくれるという、そう思うことが重要なのだろう。
ここに来れば会える。消えてしまったわけではない。声は聞こえずとも、ここに来れば会える。
そうして、生きる力に変えていったのかもしれない。
「ここだ」
『永井家先祖代々の墓』と書かれた墓には、白と黄色の小菊の花が添えられており、まだそれは新しい。
「あっくんのお母さんかな」
自然とそう思った。ここにも、生きる力をもらいに来る人がいる。胸を込み上げる思いが確かにあって、目頭が熱くなる。
その正面に立つと、「あっくん、きたよ」と声を掛けた。
あっくんはどこにいるんだろう?私の周辺にいるのならば、今、ここで同じようにお墓を見ているのかな……
沙絵は持ってきた手桶と柄杓を通路脇に置くと、来た道をいったん戻ることにした。
あっくんのお母さんがあげたと思われる、まだ新しいお花をどけて、自分が持ってきたお花をあげる気にはどうしてもなれず、水道の脇に桶と一緒にいくつかの花瓶が並べてあったので、その一つを借りに行くことにしたのだ。
再び墓まで行き、そこから振り返ると、そこには懐かしい田舎の景色が広がっていた。
「あっくん、ここからいろんなところが見えるね。あっくんの家、私の家、集合場所、お菓子屋さん、川向こうの山、子供の頃にザリガニを捕まえていた溝も見える。あっくんの友達の家も見えるのかな……いっぱい見えるね。ねぇ、これなら寂しくない?あっくん、寂しくない?あっくん、ごめんね、ごめんね。私、知らなくて、来るのがこんなに遅くなっちゃった。あっくんがいつも護ってくれていたのに、私、全然知らなくて、知らないままで、ごめんね、本当にごめんね」
沙絵は自分の周囲を見渡して、見えないあっくんに声を掛けながら、その声はいつの間にか涙声に変わり、見えない篤史を必死に見つけようと探していた。
沙絵は自分のこの感情に戸惑っていた。
こんなにも自分が感情的になるとは思ってもおらず、あっくんに対しては、ずっと憎しみしかなく、それすら高校生の頃にはもうその存在すら意識の底にもないほどで、言ってみれば、もうすっかり忘れていたと言ってもいいほどだったのに、つい3日前に、ずっと傍にいて自分を護っていたと聞き、何年もの間、ずっとそうしていたかと思うと、あっくんへの感情は一気に180度変化し、その変化の早さこそが、過ぎ去った時間の長さを物語り、沙絵の心に『愛おしさ』を生んだ。
それは、教師となった沙絵にとって、自分のクラスの子たちに感じる愛おしさに、とてもよく似ていた。
「昨日、あっくんのお墓に行ってきました」
翌日の月曜日の放課後、沙絵は杉田に時間をもらい、あっくんの墓参りをしたこと、そこでの自分の感情の変化に戸惑ったことなどを話した。
「杉田先生、このままでいいんでしょうか?あっくん、このまま私の傍にいたままで、いいんでしょうか?あの世と言われるところへ、天国と言われているところへ行けるものならば、そうしたほうがいいんじゃないんですか?」
「この前も言ったように、私にもわからないの。私も健太に対してずっと思っていたことよ。健太だけじゃない、見えた人全員に対して、いつも思っていたわ」
「そうでしたね。どうしたらいいんでしょう。私には見えなくて、何もできなくて、どうしてあげることもできない」
「誰にもどうしてあげることもできないのかもしれないわね。沙絵さんは、今まで通りでいいんじゃない?ごめんなさいね、篤史君のこと話してしまって……」
沙絵はいいえと言うように、首を横に振り答えた。
「杉田先生、やはりお母様のご実家に行くときに、私、ご一緒していいでしょうか?」
「う~ん……別にね、来てもらってもいいんだけど、私も自分の行動や感情が読み切れないのよ。今の沙絵さんの話を聞いていて、私はマー君の亡くなった原因の、その場所へ行くことになると思うの。だからその時、自分がどうなってしまうのか……そんなところ、他人には見せたくないわ」
「そうですよね。わかりました。無理言ってすみませんでした」
沙絵は壁に掛けられた鏡に目をやり、そしてその軌道を目で追うようにして反対側の窓の桟に置かれた鏡を一目見、首に掛けられた母の懐中時計を、ブラウスの上から握りしめた。
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