第67話 清瀬川



 珈琲のいい香りがしてきた。


 母が両手にひとつずつカップを持って、志保の前に志保が20代の頃に使っていたピンクの小さな小花の絵がついているカップを置いた。


 家を出てから20年近く経つのに、家にはいまだに志保の使っていた食器が残っており、帰るたびにそれが出てくるのだ。


「ありがとう。いい香り」


「ちょっと甘くしとこうかな」


 そう言って、母は蓋のついた白い壺型の砂糖入れから小さな黒糖を小さなトングで一つつまむと、自分の珈琲に落とした。


「えーっと、どこまで話したっけ?」


 エアコンが効いて気持ちがいい。


「私のマー君に関する最後の記憶っていうと、マー君が亡くなった次の年、マー君と庭の水道のシャワーホースで虹を作って遊んだことだけど、お母さんの言ってる4人で川へ行ったことって、その前の年のことよね」


「そう、その時のことなんだけど、あなた覚えてるかしら?」


 志保は最後の正樹との記憶であるシャワー遊びやそのあとの、正樹の初盆で正樹の姿が見えなくなったことの記憶が強烈過ぎて、その前の年のことなど当時は考えもしなかった。


 いくらかの歳月が経つにつれて、正樹がどうして亡くなったのか、誰か話していたことがあっただろうかと考えたことはあったが、兄たちだけでなく両親さえ何も触れない事柄を聞き出すことに躊躇いがあったのだ。


 それは、触れてはいけないことではないかと、志保はその空気を察知し、いつしか正樹の存在を心に閉じ込めていた。


「清瀬川に4人で行って、そう、お兄ちゃんたちがいつも一緒に遊んでた兄弟がいたような気がする」


「そうそう、その近所の兄弟がいて6人で川で遊んでたのよ。まあ、遊んでたとは言っても、大志たち4人はいつもしているみたいに橋のすぐ脇にある岩に登って、そこから順に川に飛び込んでいて、あそこは深いから、正樹と志保はまだ飛び込んじゃダメよって言われてて、浅くて流れの緩やかな川下で遊んでたのよね」


「そうだと思う。いつもの浅くて川の流れが緩やかな方で遊んでた」


 その様子を思い出すように視線を上げていた志保が、何かを思い出したようにパッと目を大きく開くと、視線を母に向けた。


「そうだ、そこからもう少し川下に親子連れが何組かいたような気がする」


「そうね、その一組の親子連れのお父さんが……」


 そこまで言って、志麻の言葉が一瞬途切れた。


「お父さんが?」


「……川の底に沈んでいた正樹を救い上げてくれた」


「川の底に……」


 志保はそう呟くと、母に向けていた視線がゆっくりと下げながら、その目は映るはずのない過去の清瀬川を見ようと、記憶の中にある川の景色を探していた。


「あの日、……マー君が溺れた?ううん、思い出せない。そんなことあったかしら?だって、溺れるようなところじゃなかったはずよ。流れが緩やかな浅いところで遊んでいたはず」


「そう。あなたは思い出せなかった。きっと大きなショックがあったのね、その日のこと、川へ行ったときのことを記憶から消してしまったの。病院でお医者様にも言われたわ。無理に思い出させない方がいいって。そりゃそうよね、思い出すってことは正樹の溺れたときのことを目の当たりにするってことだから」


「マー君が溺れたって言うけど、だから溺れるようなところじゃなかったと思うんだけど……」


「溺れたのはそこじゃないの。お兄ちゃんたちが遊んでいた、橋のすぐ近くの深いところ」


「え?あの深いところ?だって、あそこは深いから私たちは遊んでなかったはずよ。だいたいお兄ちゃんたちはどうしたのよ。そこで遊んでたはずじゃない」


「お兄ちゃんたちは帰ったあとだったのよ。お兄ちゃんたちがそろそろ帰ろうって、あんたたちに声を掛けて、でも2人とももう少しって言ったそうで、じゃあ先に行ってるぞって、あんたたち2人で川で遊ぶことあったし、お兄ちゃんたち、深いほうへ行くなよって声を掛けて帰ってきたって」


「それで?お兄ちゃんたちが帰ったあと、私たち深いほうで遊んでたっていうの?」


「そうみたい。その親子連れが見てたの。何人か帰って、残った子たちが飛び込んでたのを見てたの」


「そう。私たち、飛び込んでたんだ……」


「だから気づいてくれたのよ、正樹がいないことに。溺れてるかもしれないと思った時、ぞわっと総毛だったって言ってたって」


 志保の視線は、半分ほど残っていた珈琲にあった。


 その黒い水をしばらく見つめ、目を閉じて透明に澄んでいた空色の水を、正樹と遊んでいた日を、必死に思い出そうとしたが、どうしてもその深いところに岩から飛び込む正樹の姿が思い浮かばない。


「ダメだわ。思い出せない」


「無理に思い出さなくてもいいんじゃない?正樹が溺れるところ、志保の心がそれを思い出すことを拒んでいるのよ。正樹と楽しく遊んでた日のことだけ覚えててあげたらいいんじゃない?」


 そんな母の言葉に2~3度軽く頷きながら、冷めてしまった珈琲を飲みほした。

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