第66話 見えていた
「あの年は、あんたたち3人揃って田舎へ遊びに行ったのよ。いつもの夏のように泊りがけでね。11日のことだったわね。お盆に入ると水遊びをしちゃいけないって、よく田舎の人たちは言ったわね。お盆には亡くなった人が帰ってくる。その人たちがあの世へ戻る時、連れて行かれるなんてね、よく言ったもんよ。それで12日には水に入るのを禁止されるからって、あんたたちは11日に4人でいつものように、清瀬川へ水遊びに行ったんだけど、それは覚えてる?」
母のその言葉に、志保は話を聞きながら思い出していた当時のことを頭に思い浮かべていた。
マー君が一緒に川へ遊びに行った最後の記憶。
志保は栗のタルトにフォークを差し込んだまま、その手を止め、その目はタルトに向いてはいるものの、見ていたものは、あの日の光景で、2人の兄たちと、その後で兄たちを追いかけるように行くマー君、そのすぐ後ろに浮き輪を抱えた自分が続く。
「うん。みんなで川に向かっていた。私、浮き輪を持っていたと思う」
「そうだね、あの浮き輪は今でも鮮明に覚えているわ。あの日見たものは、全てが昨日のことのようにハッキリ覚えてる」
「私の記憶の中にいる最後のマー君は、多分、その次の年のマー君で、庭で一緒に水遊びしているマー君。お兄ちゃんたちが一緒に行けなかった年だったはず。その時のことの方が、記憶に強く残っている」
志保は何気なくそこまで話して、ハッとした。これは言ってはいけないことだったと、ハタと思ったからだ。今までずっと隠してきたこと。その、次の年、マー君は存在していなかったのだから。
「あっ、違うかもしれない。それはもっと前の記憶かも。お兄ちゃんたち、よく近所の子たちと遊んでて、私はマー君と2人で遊ぶことが多くて……」
「志保」
母は志保の話を遮って、志保の目を真正面から受け止めた。
「ねえ、志保。お祖母ちゃんはこの家にいるのかしら?ここにはいないかな?やっぱ浅羽の家にいるのかな?それとも、お祖父ちゃんがいたりして?……いや、もしかしたら、正樹がここにいるの?」
志保は大きく鼓動し始めた胸の音を誤魔化すように、引きつった笑顔を母に向け、
「何言ってるのよ。そんなこと私にわかるわけ……」
「見えるんでしょ?隠さなくていいよ。ごめんね、もっと早く言ってあげればよかったね」
「なんで?なんでそんなこと言うのよ。なんで……」
「お祖母ちゃんも、そうだったから。あ、お祖母ちゃんって、私のお祖母ちゃんね。あなたの曾お祖母ちゃん。子供の頃、時々ね、お祖母ちゃん以外は誰もいない部屋から話し声が聞こえることがあってね、誰と話してたの?って聞くと、亡くなったお祖父ちゃんや、お祖母ちゃんのお母さんと話してたって言ったことがあって、子供の頃にはそんなことしょっちゅうで、それが本当だとは思ってなかったの。お母さんに話しても、歳を取ると親しい人が減っていって、話したい人には、写真や位牌に向かって話すものだって言われたからね、それを信じていたんだけどね、あれはお祖母ちゃんが亡くなる少し前だった。私は学校から帰ってきて、いつものようにお祖母ちゃんに呼ばれて部屋に行くと、いつものようにお灸の準備がしてあって、お線香で火をつけてくれってことだと思ってそこに行くと、お祖母ちゃんが『ここまで生きたらもういいねぇ、いつでもいいから連れてっておくれよ。ちゃんと迎えに来ておくれ』そう言って、手を伸ばしたの。そのほんの一瞬、私にも見えたの。誰かの手がお祖母ちゃんの手に触れるところを。お祖母ちゃんは私が部屋に入ってきたことにまだ気づいてなかったのね。襖が開いてたままだったから。そこにいる私に気付いて、もういたのかいって、一瞬驚いてたわ」
「えっ?お母さんにも見えたの?」
「私が見えたのは、後にも先にも、あの一瞬だけだった。しかも見えたのは手だけ。でも自分の目を疑ったわ。まさかと思って目をパチパチやったけど、後にも先にも、見えたのはあの一瞬だけだった。それで曾お祖母ちゃんが言ってたことは本当だったのかもしれないって思ったの。だからね、あなたが見えていても不思議はないなと思っていたのよ」
「私が見えていたって?どういうこと?」
「子供の頃のあなたの話を聞いていて、あれっ?て思うことは何度かあったの。これは……と思ったのは、夏に泊まりに行ったときのことで、そう、正樹が亡くなった次の年、あなたが一人で泊まった時にね、あなたは蚊帳の中でお祖母ちゃんとマー君と一緒に寝たって話してたことがあってね、ああ、志保には3人でいるところが見えてたんだなって思ってね。でもね、あの時にあなたが見たお祖母ちゃんって、たぶん曾お祖母ちゃんだったと思うわ。話の様子から、お祖母ちゃんだったとは思えないし、お祖母ちゃん、『しーちゃんが変なこと言うのよ。正樹と頭コツンがどうとかって』って言ってたから。お祖母ちゃんは、曾お祖母ちゃんのことにも全く気付かなかったみたいだしね。まあ、曾お祖母ちゃんも若い頃には娘に気付かれないようにと注意してただろうし」
そこまで言うと、既に冷めてしまった残り少ない珈琲を一気に飲み混んで、母は志保の空になったカップも持ち、新しい珈琲を淹れに台所に向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます