第四章

第65話 実家へ


 仄暗ほのぐらく揺らぐ水の中から空を見上げ、綺麗な青に見えない空が悲しくて、正樹は手を伸ばして水をかき分け、なんとしてでも青い空をその間から見ようと、必死にもがいていた。


「マー君……マー君」


しーちゃんが呼んでいる。


 正樹は自分を呼ぶその声に、上に伸ばしたその手を引っ張られるようにして、志保の元へ飛んだ。




 実家は上の兄が仕事で家を出たため、2番目の兄が志保たちが子供の頃には存命だった祖母が住んでいて、志保が物心つく頃に他界した後、物置にしていた屋根続きの離れを壊し、そこに家を建て家族で住んでいるため、実家とはいえ気の向くまま帰るということがなかなかできにくく、盆正月以外は義姉が仕事に出ている時間に、ごくたまに両親に会いに行く程度だった。


 子供たちが夏休みに入り、お盆の近いある日、志保は実家の母を訪ねた。


 実家を訪ねることは、母だけに伝えてあり、聞きたいことがあるため2人で話したいとも伝えてあった。


 それもあってか、父は家におらず、志保は台所から続く懐かしいリビングのソファに座ると、手土産に持ってきた2箱の小さい方のケーキ箱を開け、珈琲を入れてくれた母とそれを覗いた。


「わぁ、美味しそうね。ケーキなんて久しぶりだわ。お父さんと2人だとケーキ食べる機会なんてなくてね。こんなにたくさん、ありがとね」


「そっちの箱は兄さんたちにね。メグの好きなプリンアラモードも入ってるから。お母さん、ケーキ、たまには買ってくればいいじゃない?初月のケーキ好きだったじゃない」


 高校生の姪っ子の恵美も、甥っ子の聡介も、義姉が仕事をしていたこともあり、以前は母屋にいることが多かったが、それぞれが中学生になってから離れの自分たちの部屋にいることの方が多くなっていた。


「そうなんだけどねぇ、メグちゃんもあまりこっちにこないし、聡介は甘いものあんまり食べないし、私も最近はどうも和菓子に目が行きがちなのよ。昔の自分じゃ考えられないわ」


「あら、じゃあ和菓子がよかったかな」


「ううん、だからたまには食べたいのよ、ケーキも」


 そう言うと、母は箱に納まった自分の好きな6つのケーキを眺め、子供のようにどれにしようか悩みに悩んで、いくつものフルーツが乗ったフルーツタルトを皿に取った。


「志保はどれにする?」


「私はそうねぇ、栗のタルトにしようかな」


「あ、やっぱり?そうかと思った」


 志保は、母が自分のために栗のタルトを避けたのだろうと思ったが口にはせず、母が入れてくれた珈琲をひと口飲むと、フォークを手に取った。


「お母さんの珈琲、懐かしいわ。ハチミツの入ったコーヒー、この微妙なハチミツの分量がなかなか同じようにならないのよね」


「そうでしょ。これは私のとっておきの秘密なのよ。飲みたければもっとしょっちゅう来なさいよ」


 志保はその言葉にはにかむ笑顔で答えて、栗のタルトを口に含んだ。


「懐かしいわ。これ、本当に美味しいわ」


「こっちのフルーツのタルトもすごく美味しいわ。ところで、仕事の方はどう?主任だっけ?大変なんでしょう?」


「そうね、今までは主任さんに頼ることも多かったけど、今度は頼られる方になって、自分の仕事は後回しになることも多いし、忙しいわね」


「あんまり無理しないでよ。休める時には、ちゃんと休んでね」


 そう言うと、半分ほどになったケーキの皿にフォークを置き、珈琲の入ったカップを持ち上げて、ひと口飲みながら志保を見た母の視線が、何か言いたげなことに志保は気づいていた。


「……ところで、今日は何か話があるんでしょ?いい人でもできた?」


 やっぱそう思うよね。


 適齢期をとうの昔に過ぎた娘が話があるといえば、そうくるのは仕方ないかと、志保は申し訳ないような、心苦しいような感じで、急いでコーヒーを一口飲むと、口を開いた。


「ごめんね、そんな話じゃないんだ……あのね、聞きたいことがあるの」


「聞きたいこと?」


「あのね……」と言い、志保は母の顔を見て、一呼吸置くと、


「マー君のことなんだけど」


「マー君って、……正樹のこと?」


「そう、従兄弟の正樹君。私、よく考えたらどうして正樹君が死んだのか、知らないなと思ってね」


「えっ?……どうして今頃になってそんなこと言い出すのよ」


「最近ね、知り合いの先生が亡くなって、若い頃にお世話になった先生で、その先生の葬儀に行ったときに、なんとなく正樹君の初盆のときのことを思い出してね。それで、そういえばと思ってね」


「随分と昔のこと聞きたがるんだねぇ。でも、あんた今まで正樹のこと聞いてきたことがなかったわね。思い出したっていうと、正樹の初盆の時のことを少しは覚えているの?」


「うん。私、マー君が死んでいること知らなくて、和尚さんが来て拝み始めて、そこにマー君の写真があって、あれ?なんで?って、そこで初めてマー君が本当にいないんだってこと理解したみたい。私のその年の浅羽の思い出って、そのくらいなんだよね」


「あの頃、志保が正樹のこと思い出せないんならそれでいいと思ってたんだよ。もし何か思い出したら、その時はまあ、上手に話そうと思っててね」


「上手に?」


 その言葉に、言い知れぬ不安を志保は抱き、吸い込んだ息は胸におもりのように溜まり、吐き出すのを忘れ息苦しく、母の視線が他に動いた瞬間、深くそれを吐き出した。

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