第62話 あいつ

 沙絵が篤史に礼を言うと、篤史の『ごめんね、沙絵ちゃん』と繰り返していた言葉が止まった。沙絵の顔を見上げたふうの篤史のその口元は、微笑んでいるように志保には見えた。


「大丈夫みたい。あっくん、微笑んでいるようだわ」


「杉田先生、このままでいいんでしょうか?あっくん、このまま私の傍にいても」


「わからないわ。私にもわからない。今はそれよりも先にあっくんに聞きたいことがあるの。いい?」


 頷く沙絵を見、志保は篤史と向き合った。


「篤史君、聞きたいことがあるんだけれど、今日、優太さんの中に入ったのは、あなた?」


『うん』


 やはりそうだったか。


「えっ?どういうことですか?あっくんが優太さんの中って」


 沙絵は篤史がここに、自分に憑いていることは、もう疑いのないことだと納得し始めていたが、志保の言った言葉が意外過ぎて、絶句した。


「沙絵さん、さっきの大也さんと優太さんの様子、あきらかにおかしかったわよね?」


 志保は、大也の様子と優太の様子から、別の人が入って操られるように2人がここにきたのだろうと思っていたのだ。


『あいつは危ない。あいつが何かすると、沙絵ちゃんが危ないと思ったんだ。だから止めようと思って連れてきたけれど、その優太ってやつ強くて、途中ではじき出されちゃった』


「ねえ、その、あいつって、誰?」


「えっ?誰って」


「沙絵さん、ちょっと待って。今、篤史君と……」


「篤史君?は、はい。……あっくんと?」


 沙絵は、志保が篤史君に聞きたいことがあると言ったその言葉を理解したようでいて、やはり自分しかいないこの状況で、志保が話しかけている相手はつい自分だと勘違いしてしまうのだった。それほど混乱する現実を、今、目の前で繰り広げられていることが、やはり異様に思えて仕方なかったが、その異様さに口を挟むと、自分が余計に混乱しそうで、開きそうになる口元を意識して真一文字に閉じた。


『わかんない。あいつが誰なのか。いつもあんたとあんたの傍にいる人をにらんでいるんだ』


にらんでいる?私を?」


 健太が言っていたことは、このことなんだろうか。


 何をどう止めさせればいいんだろう?


『今日も、持ってきた鏡を窓のところに置いて、あんたの傍にいるやつを、そこへ閉じ込めた』


「閉じ込めた?そんなことできるの?」


『向かい合った鏡に迷路がたくさんできて、そこに映ると入り込んでしまう。普段は鏡に映らない僕たちも、鏡を合わせたところを通ってしまうと、そこに引き込まれるんだ。だから僕は鏡の前は浮かんで通る』


「浮かんで通る。そっか、ふわふわさんって、篤史君のことだったんだね」


『たぶん僕だけじゃない。あんたの傍にいるやつもそうだし、みんなそうだ。今日、あいつは大也の中に入って、鏡を窓際に置いた。僕もあんたの傍の人も、気付くのが遅れて、あんたの傍の人は吸い込まれてしまった。あいつはそうやって大也の中に何度も入って、沙絵ちゃんに危ないことをさせようとしていて……』


「沙絵さんに?どういうこと?」


『沙絵ちゃんに鏡を持たせて、邪魔する沙絵ちゃんの傍にいる僕を鏡の中へ吸い込ませようとしたんだと思う。その時の衝撃が、もし沙絵ちゃんに影響したら……』


「鏡がお守りになるっていう、あれは嘘?」


 その問いに、篤史は答えずに、


『鏡を回収しにきたのは、あんたの傍にいるやつが戻ってこられないようにするためだと思う』


「戻ってこられるの?」


『わからないけど、多分。同じところを出入りした人を見たことがある』


「でも、健太は、私を護っていたのは自分じゃなくてあいつだって」


『あいつ?あいつがあんたを?じゃあいつも傍にいたやつは?健太っていう、その人があんたを護ってたんじゃないのか?』


「いろいろあるのよ。健太はもともと私じゃなくて別の人に憑いてて」


『そんなこと……』


「だからあいつが怒ってって、健太は言ってた」


『お前は誰なんだ?』


「お前?」


『今、あんたの傍にいる』


「私の?」


 志保は自分の周りを見渡すも、今、自分に見えているのは篤史だけだった。


「そう、私には見えない。以前の大也さんの様子から、自分には見えない人がいることはわかっていたけれど、私にその人は見えない」


『お前はどうしたいんだ?』


「その人と話せるの?」


『いや、話せない』


 篤史の目に映るその人のニヤリとした口元が意地悪く見え、篤史は沙絵のすぐ近く、前に行くと、沙絵を護るように立ちはだかった。


「あいつ」は、健太のいなくなった志保のすぐ傍に行き、志保を見上げた。その顔は、篤史が目にしていたいつもにらんでいるような「あいつ」の顔と違い、悲しみに満ちていた。


『どうしたんだよ。なんだよ、おかしいじゃないか。どういうことだよ。お前、その人を憎んでいたんじゃないのか?以前はお前が護っていたのか?』


 篤史は、今まで志保のすぐそばにはいつも健太がいたところしか知らなかった。


 けれどこうして健太がいなくなった今、「こいつ」が志保のすぐそばにいて、その姿は初めて目にするもので、悲しそうな眼をはじめて見て、健太の言っていた『あいつが怒っている』と言った意味を、理解できた気がした。



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