第60話 沙絵



 志保は沙絵の教室に入ると、壁にかかる鏡の位置をまず確認した。


 そして窓際のその正面に行き、朝見た大也の置いた鏡と同じ位置に自分の手鏡を置き、壁にかかる鏡が手鏡に写り込むように、壁の鏡に手鏡が写り込むように鏡を見ながら調節していると、それは起こった。


「きゃっ」


 両方の鏡がそれぞれに写り込み、鏡の中にたくさんの鏡が段々のようにいくつも重なった瞬間、ちょうどその間をふわっとした教室にいた者が、まるでそこに吸い込まれていくように入ってしまったのだ。


「これ……鏡を合わせて、ピッタリと合わせ鏡になると、生きていない人は吸い込まれてしまう。健太が言ってたのはこのことなんだ……そうか、今朝、大也さんにはこれが見えたんだ。だから倒れたのね。これは驚いたでしょうね。え?でもその合わせ鏡になるように置いたのも大也さんで……じゃあ今朝も大也さんの中には誰かがいた。そして鏡を置いて、誰かを吸い込ませたかった?」


 そこまで考え、志保はハッとした。

 今朝、ここに吸い込まれたのは、そう、健太だ。

 健太は何て言っていた?あいつを怒らせたのは自分だ。


 私に憑いていたのは健太じゃなかったのに、健太がそばにいて私に健太が見えて、だからあいつは怒っている?まさか、その「あいつ」が大也さんの中に入って、大也さんをコントロールして……


 ガラガラッと前のドアが開いた。


「杉田先生、お待たせしてすみませんでした」


 沙絵だった。何故か、ホッとした。


「友井先生、子供たちは?」


「お母さんたちが迎えに見えて、今、帰りました」


「大丈夫だった?優太さん、怪我してたし」


「そうですね、大きな怪我じゃなかったですけど、怪我してることを電話で伝えて、やはり少し動揺していまして、大也さんもいると話したので、大也さんの家に寄って大也さんのお母さんも一緒にきてくださったのでよかったです。大也さんのところは上にお兄ちゃんたちがいて、このくらいの怪我は男の子にはよくあることだから、どうってことないっておっしゃってくださって、優太さんも、自転車を避けて転んだだけって言って、それで安心したようです」


「あのことは?」


「いえ、話していません。どう話していいのかも、わかりません」


「そうよね、私たちにもどういうことなのか、まだよくわかっていないし」


「そのことを話したくて……今朝のことから聞いてもいいですか?」


 志保は全て話そうと、今朝からの一連のことでそれが一番いいような気がしていた。それに、全て話さなければ、沙絵に憑いている子の話はできない。


 沙絵の、強い視線とその中に微かに見える不安を目にしながら、志保は話し始めた。


「今朝、私の横には『健太』がいたの。健太というのは、桑田先生の弟で、もう随分前に亡くなっているの」


「亡くなっている?杉田先生の横に、いた?」


「そう、今朝、私は健太に目をやり、安心感を得ていた。健太はずっと、私のそばにいてくれた」


「健太さん?ずっと?」


「そう。私はね、見えるの。生きていない人が、もうずっと、見えるの」


「生きていない人……桑田先生の弟?」


「そう。私と桑田先生は、もう20年も前に恋人だったことがあるのよ」


 志保は、高校時代に遭った事故の話から桑田との出会いと別れ、その桑田を護るようにそばにいた健太との出会い、盛り塩のこと、この学校に憑いている霊たち、大也が言っているふわふわさんの存在がわかること、けれど自分にも全部が見えるわけではないということ、美咲に入るという話、人に入り込むということを今まで見たことがないこと等々、そして先程目にしたこと、健太とのやり取りがはじめてできたことまでを話した。


「それでね、健太は消えてしまった」


「消えた?」


 話の途中から目に涙を浮かべていた沙絵の頬を、一筋の涙が伝って落ちた。


「今までの話、信じてくれる?」


「わかりません。わかりません。でも信じるというか、私が目にしたこと耳にしたこと、辻褄が合っているように聞こえます」


「それでね、これは落ち着いて聞いて欲しいんだけど」


「なんですか?そう前置きされるって、なんだか怖いです」


「そうね、私の話は見えない沙絵さんには怖いことかもしれないけど……でもね、怖がらないで聞いて欲しいの。あなたの傍には、いつもあなたを護っている子がいるの」


「えっ?」


 そう言って沙絵は自分の周りをキョロキョロして、言われた存在を探したが、沙絵にそれが見えることはない。


「そんなにキョロキョロしないで。あなたの右のすぐ脇のところ、そこにいる」


 そう言われ、沙絵はその位置に目をやった。


「もう少しだけ、目線は下」


「下?子って言いましたよね?子って、子供ですか?」


「そう、子供。子供と言っても6年生くらいかな、もう少し上かもしれない」


「私を護っている……」


「そう、ずっとあなたを護っている」


「誰のことを言っているんですか?いえ、誰だろう……本当ですか?」


「それでね、私はその子の名前を知りたいの。心当たりはない?あなたのこと、とても大切に思っている子で、そのくらいで亡くなっていると思うんだけど」


「わからないです。そのくらいで亡くなっている子の話なんて、両親からも聞いたことないです」


 沙絵はいろんなことがいきなり頭の中に入ってきて、言葉通り、訳が分からなくなっていた。


 私に憑いている?私を護っている?名前を知りたい?どうして名前が知りたいの?健太さんと話した?大也さんの中に?優太さんの中に?美咲さんの……桑田先生が危ない?健太さんが消えた。健太さんの名を呼んだ……話せた……


 沙絵は訳が分からず頭を左右に振った。まるで大切なものとそうでないものを振り分けるように。


 けれど、そこから振り落とされるものなど、何一つなかった。


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