第56話 桑田

『志保、落ち着いて聞いて欲しい。僕はもう消えてしまうのかもしれない。兄さんが死んでしまったら、僕はもうここにはいられないのかもしれない。僕は兄さんを護るために兄さんに憑いていたから。そうだ、そもそも僕は兄さんを護るはずだったのに、兄さんから離れたから、だから兄さんは……』


「えっ?どういうこと?健太が桑田さんに憑いてたのに、離れたから桑田さんは死のうとしたということ?」


『兄さんは、志保を傷つけた。許せなかったんだ。僕だったら志保を悲しませるようなことは絶対にしないのに、兄さんは志保を裏切って、だから僕は兄さんから離れて志保のそばにいたんだ』


 健太のその言葉に、20年も前に、桑田と別れたその日に、健太が志保の車に入り込んできた日のことが思い起こされた。


 健太はそれからずっと私のそばにいて、嬉しいときも悲しいときも、何も言わずにずっと見守っていてくれたこと、その存在が、他の出会いの妨げになっていることを、時には疎ましく思うこともあったけれど、それでも毎日そこにいることで、自然とそこにいることが当たり前になっていた。


 その健太が消えてしまうかもしれない?そんなのダメだ。ずっとそばにいてくれなければ……


 志保は桑田と別れたそのときより、今、桑田によく似た健太がいなくなることのほうが怖いと感じ、強い鼓動と共に荒くなる息遣いに戸惑っていた。


『志保、大変だ。またあいつが大也君に入ろうとしている』


「えっ?何?入る?大也君に入るって、どういうこと?」


『志保、志保には見えていないものがあるんだ。志保、大也君は憑かれやすい。大也君を護っている人が少し弱いから。美咲ちゃんも憑かれやすい。心が不安定過ぎるから。まだ幼くて憑かれやすい2人が同じところにいて、だからおかしなことが起こるんだ。もう少し大きくなって、強く自分を持ち始めると憑かれることもなくなるけれど、今は危険だ。それから、沙絵さんを護っているあいつ、あいつはただひたすら沙絵さんを護っている。それもまた、おかしなことが起こる原因になっているんだ。あいつのことを沙絵さんが認識すれば、きっと……』


「待って。よくわからない……どういうことが起こるの?何が起こるの?」


『志保、ごめん。全部僕のせいだ。志保を護っていたのはあいつだったのに……僕がそばにいたかったから、志保に僕が見えたから。あいつは怒っているんだ。僕に、志保に、志保、早く、早く大也君の教室に行って、』


 唐突に健太の姿が鏡から消えた。


「健太、健太、どこ?健太、いや、いや、健太待って、いかないで、健太、健太、待って、待って……」


 志保は健太が消えた鏡を両手で叩きながら、消えた健太がそのどこかにいないか、鏡を隅から隅まで何度も繰り返し探してみたが、そのどこにも健太の痕跡こんせきが見えず、身体中が震えはじめ、健太が消えたことの意味をぼんやりとした霞の中に見つけたように、涙が溢れ落ちた。



 窓の外に広がる校庭の一画で、色とりどりのランドセルを背負ったままの6年生数人が、半分庭に埋められた、これまた色とりどりのタイヤに乗っかり、その両側からタイヤの上をジャンプしながら向かい合うところまで来ると、「ジャンケンポイ」をし、負けたほうは下りて次の子がタイヤをジャンプしながら近づいて、勝った方はタイヤを進み、また向かい合ったところで「ジャンケンポイ」と、高学年になるとなかなかやらないような遊びを、もう低学年の子たちが帰宅していない時間にやっている女の子たちを見ながら、沙絵は、案外こういう遊びって、いくつになってもやったりするものなのよねと、自分が小学生の頃に同じことをやっていたことを思い出しながら見ていた。


 先にジャンケンに勝った方の子たちが、最後のタイヤのところに進んで決着がついたところで、皆で輪になって、何やらしていたようで、今度は違うメンバーでまた両側に分かれた。


 どうやらチーム分けを変えてまた同じ遊びをするようだ。


 帰りが遅くならないといいなと思いながら、黒板の上にかかる時計を見ると、もう4時10分を過ぎていた。


「杉田先生遅いな。もうとっくに終わっているのに」


 沙絵は3時には教室にきて、自分の机で次の授業で使うための、画用紙に描いた花や葉、魚やタコなどの絵を切り抜き終えて、また別の授業で使うために、画用紙に時計の絵を描くことに取り掛かろうとしていた。


「ここの教室で」という約束なので、6時間目まである5年生が終わる時間を見計らって教室に来て、そうして志保を待っていたのだ。


 沙絵は手を止め、もう一度窓の外に目をやると、タイヤに乗る6年生たちの姿をそこに確認し、廊下に出た。


 遊ぶにしても、一度家に帰るようにと6年生たちに声を掛けようと思ったからだ。


 すると、自分のクラスの子たちの靴箱の辺りから、「カタン」と、微かな音がしたような気がした。


 沙絵はその音の出所を確かめるため、下駄箱に向かおうとしたとき、その反対側にある階段を下りてくる音に気付き首を向けると、下りてきたのは志保だった。


「友井先生、遅くなってごめんなさい」


「いえ、お忙しいのに時間取っていただいてすみません」


「どこかに行くところだった?」


「あ、はい、6年生たちでまだ遊んでいる子たちがいるので帰るよう声を掛けようかと思って」


「そう、じゃあ見てきましょうか」


 2人連れ立って学校の玄関まで行き、そこにある共用の外履に履き替えると、校庭に面したそこから外に出て、遊具のあるところまで行くと、先程の子たちは、相変わらずのタイヤ遊びで盛り上がっており、全く帰る兆しは見えなかったので、志保が子供たちに声を掛けた。


「楽しんでいるところ悪いけど、もう4時半になっちゃうよー。完全下校時間になるからそろそろ帰りなさいねー」


「はーい」


 と、数人から返事があり、子供たちは、向かい合う形の椅子型のブランコに山になっている、いつの間にか肩から下ろしたランドセルをそれぞれ背負い、固まりになって「さようなら」と、門に向かって歩いて行った。


「杉田先生、お話いいですか?」


「そうね、教室に行こうか」


 玄関に戻ろうとすると、教頭の車がこちらに向かってきた。その隣には事務の木村、後ろには校長が座っていた。


「あら、珍しいメンバーで、どこに行くのかしら?」


どこに、か。沙絵にはこのことの意味にまでまだ思いが至らないようだ。


 志保は、先程鏡から姿を消した健太を想い、もうダメなのだろうかと、一度は落ち着いた胸の鼓動をまた感じ、門から出て行く車を見送った。

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