第55話 健太
鏡に映る健太に後ろ髪をひかれながら、志保は階段を下りた。
前を歩く下田の後ろを、その足取りを目印のように、ただ歩いていた。
頭の中では、今朝から自分の周辺には自由人健太がいないこと、その健太がなぜ鏡に映っていたのか、そもそも健太は鏡には映らないはずだったはずなのに、なぜ鏡に……そこまで考えて、もしやと、その考えに至った。
健太は鏡に映ったのではなく、鏡の中にいるのではないか。
「あ、ありがとうございました」
いつの間にか職員室の自分の席にきていた。
下田が机にノートを置いて、自分の席に向かうところで礼を言い、イスにカバンを置くと、義務は終えたとばかりに志保は来たところを戻った。
職員室横の階段を上がり3階へ向かう踊り場に着き鏡を見ると、やはり健太はそこにいた。振り返り、自分の周辺を見渡すも、やはり自由人健太はいない。そのまま階段を上がると、3階の階段の周辺に誰もいないことを確認し、踊り場に戻った。
「ねえ、どういうこと?健太、なぜそこにいるの?というか、そこにいるの?こっちにいるの?どっち?」
聞いても返事は返ってこない。そんなことわかっていたのに、志保は聞かずにはいられなかった。
鏡の中の健太は、悲しそうな目で志保を見つめている。
「健太」
そう呟くと、志保は悲しい目をした健太に触れるように鏡に手を触れた。
『しほ』
「えっ?」
『しほ』
『しほ』
「ま、まさか……まさか健太?」
『しほ……しほ……』
『志保、はじめて僕の名前を呼んでくれたね。志保、志保……やっと、やっと届いた』
鏡の中の健太の唇は動いていないのに、声が聞こえる。どうして……
「どうして……どうして聞こえるの?今まで一度だって応えてくれたことなかったのに」
『志保が僕を人として認識してくれたから』
「してたよ、最初からちゃんと認識してた」
『でも、一度も僕の名前を呼んでくれたことがなかった。心の中で呼んでいても、僕には届かない』
「ごめん……健太。ごめんね、ごめん」
心の中で、何度も何度も毎日健太に声をかけていた。けれど、声に出したことがなかった。声に出して呼ぶ時は、いつも「ねえ、や、あんた」だった。それは、志保には生きていない人を、声に出して呼んでしまうことには抵抗感があったからだ。
あれはそう、祖母の言葉だった。
「志保ちゃん、逝く人をそんなに呼んではいけないよ。あまり呼びすぎると、あの世へ逝きそびれてしまうからね。ちゃんと逝かせてあげないと、ずっと
「さまよう?」
「志保ちゃんには難しいかねぇ、そうだねぇ、迷子になっちゃうんだよ。あの世にも行けないし、この世にもいられないし、行き場がなくなるねぇ、そうすると可哀想だよねぇ」
「うん、かわいそう」
可哀想だから、呼び過ぎてはいけないよ。
祖母はそう志保に言っていた。あれは、いつのことだっただろう。
名前を呼んだらいけない。呼びすぎると逝きそびれてしまうから。
強く記憶に残るそのことが、ずっと意識下にあったのだろう。だから生きていない人の名を軽々しく呼ぶようなことが志保にはできなかったのだ。それに、生きていない人の名を呼び語り掛けることは、その存在を意識をもって見えていることを認めてしまうことにもなる。そのことが、少し怖くもあったのだ。
それにしても、あれはいつのことだったのだろう。
霞がかったような靄の中から、祖母が語るそこだけがなんとなく記憶の底にあり、それ以外のことがあまりはっきりとしない。子供の頃、夏休みには母の実家に遊びに行っていたことが何度かあり、その時の記憶だろう。
志保はその記憶について、そう深く思い出すことをしたことがなかった。それは、よくある小さすぎて忘れた記憶の一部に過ぎないのだから。
『志保、ごめんね』
「健太、どうして謝るの?それより、なぜそこにいるの?なぜこっちにいないの?どうなってるの?」
『志保、わからないんだ。志保がいるそこへ繋がる鏡がどれなのか、わからないんだ』
「わからない?繋がる鏡?どういうこと?ねえ、どういうことなの?」
『志保と一緒に大也君のクラスに様子を見に行った時だったんだ。一瞬のことだった。いつも鏡の前は通らないようにしていたのに、今までなかったのに、鏡があったんだ。それも2つの鏡が真正面で合わさるように。一瞬のことだった。気づいたときには鏡の前で、僕の身体を通して反対側の鏡に鏡が映って、映ったその鏡に反対の鏡がまた映り込んで、その鏡にまた……いくつも鏡が重なって、一瞬にして自分のいるところがどこの鏡の前なのか、志保がいるのがどこの鏡の場所なのか、わからなくなってしまったんだ』
「鏡?」
そういえば今朝、沙絵のクラスを覗いたとき、嫌な空気が漂っていて、鏡を出入りする人たちを見た。
「まさか、あのとき……」
『僕が映り込んだあの瞬間、そこが出られることに気付いた中に閉じ込められていた者たちが、何人か出入りしたんだと思う。僕は入り込んだ瞬間、どこが志保に繋がるのかわからなくなってしまった。はじめての場所だったから、どうしていいかわからなくなって、だから兄さんの魂を捜したんだ。それなら僕と同じだから見つけられるはずなのに、でも、何故かその道しるべが見えないんだ……』
「どうしたらいい?どうしたら健太は戻ってこられるの?」
その問いに、鏡の中の健太は首を横に振った。とても悲しそうな顔をしながら。
『志保、ごめんね。全部僕のせいだ。僕が志保と一緒にいたから。志保のそばにいて、志保を護ろうとしてしまったから。だから、あいつが……ごめん、志保のそばにいたかったんだ』
「あいつ?あいつって、誰?」
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