第52話 不穏
「杉田先生、杉田先生」
沙絵との話を終え、給湯所の衝立から出ると、ちょうど職員室に入ってきた吉野が志保を見つけ手招きをしていた。吉野のところへ行こうとしたところ、吉野が下駄箱の方を指さし職員室から出て行った。
これは、と思った。
1時間目のあとで桑田の話をしたその続きだろうと、急いで吉野がいると思われる職員の下駄箱に向かった。
「吉野さん、何かわかりましたか?」
「うん、まだね、意識が戻ってないらしいの。さっき教頭が戻ってきて給食ご一緒したんだけどね、大也さんの話をしていて、何気なく聞いてみたのよ。病院といえば桑田先生もそこに運ばれたんですよね?って具合でね」
「そうですか、まだですか」
「桑田先生のお休み、どうも鬱っぽかったらしいの」
「えっ?そうだったんですか。全然知りませんでした」
「校長、そんなこと全然言ってなかったし、どこか身体が悪いのかなって思ってたわよね。教務主任になって仕事も忙しかったじゃない。それに加えて、どうも家の方がゴタゴタしてたらしいの。奥さんともなんか上手く行ってないらしくて」
そのことは知っていた。
桑田が休みに入る前、志保とよりを戻したいような話をしていたが、志保はそれをきっぱりと断っていたのだ。よりを戻したいなどと言い出したのは、志保がまだ独り身でいることを、自分のことをずっと想ってくれているとでも思ったのだろうか。笑わせるんじゃない。お前のせいで男というものを信用できなくなっただけだ。昨日と今日で言うことの変わるような男とやり直すつもりなんて、全くない。そう思っていた。
が、しかしそこまで追い詰められていたとなると、感じる必要のない罪悪感というものが志保の心の中にも多少は芽生えて、もう少し対応の仕方があったのではないかと、沈痛な思いになっていた。
「桑田先生、なんとか意識が戻ってくれるといいですね」
そう言いながら、あれから全く姿が見えない自由人健太が桑田のところにいるような気がして、志保は桑田の枕元に立つ自由人健太を思いながら、なんとか桑田を連れ戻してくれますようにと、自由人健太に祈った。
昼休みの後、掃除の時間になり、沙絵はそれぞれの担当場所で掃除をする子供たちの様子を見て回っていると、下駄箱で靴を出してそこを拭いて靴を戻す掃除をしていた優太が、沙絵を見つけると近寄ってきた。
「先生、大也はもう学校にこないの?」
「うん、今日はね、病院が終わったらそのまま帰るって」
「じゃあ、今日はあそべない?」
「う~ん、どうかな。頭ゴツンしたからね、今日は家で大人しくしていたほうがいいかもしれないね」
それを聞いた優太は、目に見えるほどあきらかに肩を落とした。
「あ、そうだ。大也さん今日の宿題を持っていないから、優太さん届けてくれる?」
「うん、いいよ」
パッと顔が一瞬で明るくなった優太の顔を見て、あとで大也の兄に頼もうと思っていた夏休み前のお便りと、今日は持たせるつもりのなかった宿題のプリントを、優太に頼むことにしてよかったと沙絵は思った。
「じゃあ、大也さんの分は後から持ってくるからね。ほら、掃除掃除、掃除の時間終っちゃうよ」
優太は一つ頷くと、掃除の続きをはじめた。
終わりの会を終え、子供たちがいつものように入り口に立つ私に一人ずつハイタッチしながら教室を出て行くところを見送っていると、一人、後ろのドアから気配を消すように出て行く美咲が目に入った。
その姿は、やはり以前の大人しい美咲と重なった。
「先生」
ぼんやりしていた。
ハイタッチの手が一瞬下がってしまい、最後に教室を出ようとしていた結美が見上げていた。
「ああ、ごめんごめん。はい、さようなら」
「あのね、先生。今日の美咲ちゃん、なんかおかしい」
沙絵のあげた手に触れることなく、結美はしょんぼりした顔をしてそう言った。
そういえばたった今、美咲は一人で後ろのドアから出て行った。ここのところ、帰りは毎日美咲と結美は一緒だったのに、やはり美咲になにかあったのだろうか。
沙絵はしゃがんで結美の視線と目線を同じ高さにすると、
「おかしい?どうして?今日は一緒じゃないの?ケンカでもしたかな?」
「ケンカしてない。美咲ちゃん、話しかけてもいつもみたいにおしゃべりしないし、いつも下むいてて私の顔も見ないし、休みじかんも美咲ちゃんのほうからぜんぜんこないし、私のこときらいになっちゃったのかな」
そういって結美は今にも泣き出しそうな顔をして沙絵の目をしっかと見た。
「そっかあ、美咲ちゃんどうしちゃったのかな。今日は朝からいろいろあって、美咲ちゃん元気がなくなっちゃったのかもしれないね。明日、先生と一緒に美咲ちゃんに声をかけてみようね。結美さん、美咲ちゃんとこれからも仲良くしてくれる?」
「うん、美咲ちゃんと結美はずっと友達だよ」
「そうだね、友達だから仲良くしたいんだよね」
結美は泣きそうな顔に笑みを浮かべ、沙絵に向かって一つ頷き、
「先生」
と言って、両手をあげてきたので、沙絵は立ち上がって結美とハイタッチして見送った。
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