第50話 吸い込まれる
こちらを向く沙絵と目が合い、沙絵は志保からその隣の空に視線を移し、その視線はまた志保を捉えた。
志保はその視線で、健太とのやり取りを見られた、これはどう取り繕えばと思った瞬間、沙絵が急に走り出して教室へ入って行ってしまった。
「ふぅ~~っ」
いつの間にか溜め込んでいた息を吐き、思いのほか強く鼓動していた心臓を抑えるように、もう2回意識して吸って吐いてから、廊下を進み右へ折れ階段を上がる前に沙絵のクラスの方に一度顔を向けると、その2つ手前の教室から波多野が出てきて沙絵のクラスへ急ぎ足で向かったのが見え、先程の大きな声、やはり何かあったのかと歩をそちらに向けると、波多野が急ぐような仕草で沙絵の教室から出てきた。
「何かあったんですか?」
「ああ、杉田先生、また大也さんが倒れて、すみません急ぎますので」
その足を緩めることなく、波多野は志保を追い越して行った。
教室を覗くと、その空気は明らかにおかしかった。
それはまるで、水の中に油を流し込み、マドラーで一回ししたような、混ざることない異様なねっとりとした空気の中に、あきらかに小学1年生ではない活きていない身体を持つ人や、その形がもうはっきりしない人が壁や窓枠から出てきたり、入って行ったりしていた。
それはよく見ると、窓枠に置かれた小さな鏡と、壁に掛けられた鏡で、直線状に置かれたそれらは互いを映し込み、映し込まれた鏡が、また逆の鏡を映し込み、それはまるで鏡の中に鏡の階段があるように見えた。そして、もともとよく見かけた生きていない人も、まるで吸い込まれるように鏡の中に入って行くのが見え、志保は胸騒ぎを覚えた。
何がどうなっているのかわからないのだけれど、何かが起こる前兆に思え、慌てて沙絵を探した。
沙絵は教室の後ろでしゃがみ込んで大也に手を添えているところが見え、その沙絵に背を向け、いつも沙絵についている子供は、まるで何かから沙絵を護るように、鏡から出てくるものの盾になっているように見えた。
「杉田先生、クラスの子たち大丈夫ですか?」
うしろから声をかけられドキリとした。
波多野と養護の大野が小走りでやってきて、波多野がそう声をかけると、波多野は自分の教室に戻って行った。
波多野の行動からその言葉を、始業時間過ぎたのにここにいて、自分のクラスの子たちは大丈夫かと言われたと受け取った志保は、「そうですね、戻ります」と言い、後ろ髪を引かれる思いで自分のクラスに行くため、階段まで戻ると、もう一度沙絵のクラスの方に目をやりその視線を戻そうとしたところ、いつも近くにいる自由人健太がいないことに気付いた。
「えっ、けん……た」
志保は首を左右に振り、いつもそこにいる自由人健太が自分の身体に隠れているのかと探すも、どこにも見えない。
それに気づいた瞬間、志保は呼吸が早くなり、早鐘のように心臓がドキドキとしたと同時に、身体中の血管に鳥肌が立つような、ぞわぞわっとしたものが身体中を通り抜け、自分の身体が震え出したのがわかった。
志保は両方の手で自分の身体を抱くようにして、腕を強くさすりながら、「ダメ、行かなきゃ」と、階段を上がっていった。その足取りは、何かが足にまとわりついたように、とても重く感じた。
なんとか1時間目を終えた志保は、「起立、気をつけ、礼」と言う当番の声で頭を下げると同時に身体をドアに向け歩き出していた。
大野が大也を保健室に連れて行ったのは容易に想像がついたので、そこに行きさえすれば沙絵もいるだろう。少しでも今朝の出来事を聞いておきたい。
志保は自分と健太とのやり取りらしきものを沙絵が目にしたことなどすっかりと失念し、今朝、沙絵の教室で何が起こったのか聞き出したい衝動に駆られていた。それは、自由人健太の姿が見えないことときっと関係あるはずだ。
逸る気持ちを抑え、保健室の前で一度深呼吸をし入ると、大野が机で何かを書いているところだった。
「大野先生」
「あら、杉田先生どうかしました?」
「あの、今朝の大也さんのことですけど」
3つあるベットのカーテンは全て開けられ、そのどこにも誰の姿もなかった。
「ああ、あのあとお母さんに連絡を入れて説明して、校長先生たちとも話して一度ちゃんと診てもらおうかってことになってね。頭を打った様子はなかったけど、それもちゃんと確認しといたほうがいいと思ってね。今、大也さんに付き添って病院へ行って戻ってきたところ。私が保健室を長く空けるのはまずいから、教頭先生が付き添ってくれてるわ」
「そうでしたか。大也君の様子はどうです?」
「それがね、元気はあるのよ。前に倒れた時と同じでケロリとしててね」
「そうですか、それじゃひとまずはよかったですね。友井先生には?」
「うん、心配してると思ってね、チャイムが鳴るとほぼ同時に教室の前で待ってて話してきたわ。子供たちもやっと落ち着いたみたいだったけど、心配だから休み時間もしばらく教室で様子を見るって」
「そうでしたか、クラスの子たちも落ち着いているならよかったです」
大野に軽く挨拶し、志保は保健室を出ると、右手の先にある沙絵のクラスの方に目をやり、廊下でじゃれてる男子たちをしばらく眺め、職員室へと向かった。
その間中、自由人健太が現れるんじゃないかと、何度も周辺に目をやるも、健太の姿はその残り香さえ感じることなく、見えないままだった。
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