第49話 異様
「美咲ちゃん、泣かないで」
養護の大野が大也を抱え保健室に向かい、ホッとしたところで沙絵が教室を見渡すと、そんな声が聞こえ目をやると、美咲の前の席に座る日菜が後ろを向き、一人だけ前を向いている美咲にそう声をかけていた。
「日菜さん、どうしたの?」
席の近くまで行き、そう声をかけると、美咲のしゃくり上げる声が次第に大きくなってきて、それを合図のように、女の子たちに伝染するように、泣き声が広がっていった。
「みんな、どーしたの?大丈夫だからね、大也さん倒れてビックリしちゃったね。でも大也さん気が付いたし、保健室にいるからもう大丈夫だよ。みんな先生の方を向いて」
そういって教壇に立つ自分の方に顔を向けさせた沙絵は、
「先生の顔を見て、先生と一緒にゆっくり~大きく息を吸って~吐いて~~吸って~吐いて~~」
と、3度繰り返すと、沙絵は自分の前で大きく手を広げ、それを目の前でパチンと、打った。
「さあ、読書するよ~」
顔に大きな笑みを浮かべ、いつも通りの大きな元気な声でそう声をかけると、子供たちが弾かれたように机に出していた本をそれぞれ読み始めた。
朝読書の時間は10分。とうにそれは過ぎていたけれど、いつもと同じことをすることが今日は必要な気がして、その時間を取った。今日の1時間目は国語だし、ちょうどいい。
読書時間を終えると、
「じゃあね、みんな国語ノートを出して、今読んでいる本のタイトル、なんていう本を読んでいるのか書いてください。それと、その本に出てくる人、人じゃなくても動物でも虫でもなんでもいいので、3つ名前を書いてください。もし生き物が出ていない本だったら、出てくる花や木、場所、なんでもいいから3つね~」
1年生のこの子たちには、読書時間には家にあるもので、絵本でもなんでも好きなものを読んでいいと言ってあり、みんな自分の好きな本を持って来ている。子供たちの意識はそこに集中し、好きな本を読みキャラクターを書くことで、先程の出来事から意識が離れることを狙ってのことであり、子供たちの様子を見ていると、泣いていたのが嘘のようににこやかになる子も多く、沙絵はホッとする思いで教室を見渡していた。
そうしている間も、沙絵は注意深く美咲の様子を窺っていた。
なんだろうこの感覚。美咲の様子が以前の美咲、大人しかったころの美咲の姿と重なり、最近の、何か一つ纏ったかのような、生気が強くなった美咲がそこにはいなくなっていた。
どうしたんだろう?何か違う。何か。そこで沙絵は、ハッとした。
そう、今朝は何か違う。それは自分が今朝したことにもしかしたら関係があるのではないか。
沙絵は校長室前の廊下から持ってきて壁に掛けた鏡に目をやった。そこに鏡を掛けたのは、ほんの無意識のことだった。
廊下側から2列目の前から3番目、その美咲の席から見て真横にある廊下側の壁に、沙絵は鏡を掛けたのだった。
「いやだ、私、なんであそこに」
ふわふわさんは鏡が嫌い。大也がそう言っていた。
美咲さんの中に入ろうとしているとも言っていた。
あそこに鏡を掛けたことで、美咲さんの中に入っていた「ふわふわさん」が出たのではないか。沙絵はそう考えてから、「まさかね」と、首を振ると笑みが零れた。
「さあ、みんな書けたかなー?」
そう声をかけ教室全体を見渡して、沙絵はまたいつもと違う光景をそこに見つけ、ハッとし、息が止まるほど驚いた。
自分の顔から一瞬で笑みが消え、息を吸い込むのを忘れるほど自分が固まったことに気付いたのは、沙絵の視線を追いそれに気付いた真ん中一番後ろの席にいる慎吾の、
「あ、かがみだー」
という一言だった。
慎吾の声で我に返った沙絵は、ひどい動悸と共に思い切り吸い込んだ息の量に子供たちに気付かれないように黒板の方を向き、静かに深く息を長く吐き、振り返ると窓際に立て掛けるように置かれた鏡のところに行くとそれを手にとり、
「これは誰の鏡ですか?」
と、全体に見せるようにして聞いたが、誰も自分のものだという声は出ない。
「誰のかしらね?」
そう言いながらも、この鏡はもしかしたらここに置いたほうがいいのかもしれないと思い、元あった場所に立て掛けた。
沙絵はこの鏡に気付いたときから分かっていた。この鏡は、まるで美咲を挟み廊下側の壁に掛けた鏡と合わせ鏡のように置いてあったのだ。
これを置いたのは、もしかしたら大也さん?
その小さな手鏡は、サッシの隙間に挿しこむようにして立たせてあり、その正面に沙絵が校長室前から持ち込んで掛けた鏡がある。
このことと、大也が「ダメーー」と言って倒れ込んだことは、きっと関係がある。
沙絵は、大也が何を考え、何を意図し、何を期待してここに鏡を置いたのか、そして何を見たのか、何が起こったのか、それは今、大也にしかわからない。
なんとしても、大也からいきさつを聞かなければならない。沙絵ははやる気持ちを抑え、今は授業に集中しなければと頭を一振りして、教壇へと戻っていった。
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