第48話 意識

 沙絵は朝の志保とのやり取りが途中だったことで、あとで志保に話す時にはより正確にと思い、頭の中で朝からの出来事を何度も繰り返して思い出し、朝、学校に出勤してきたところから今までの行程を、一分の狂いもないよう説明できるくらい正確に思い出していた。


 今、自分の話を真剣に聞いてくれるのは志保しかいない。その視線は、つい志保を追ってしまう。それほどまで沙絵は志保を頼りにしていたのだった。


 職員朝礼中、志保は上の空だった。


 いつも真剣に校長や教頭の話をそちらに目を向け聞いている志保が、今日はその視線は捉えようのない何かを探すことすらせず、見ているものが見えていないように、何も映らない目をしていた。


 杉田先生、何か様子が変だわ。どうかしたのかしら?と、沙絵は先程の志保との会話を思い浮かべてみたが、特におかしな話をした覚えはない。鏡の話も、今朝がはじめてではないし、何か他に心配事でもあるのかしら。


 沙絵もまた、職員朝礼での教頭の話も上の空で、何を話していたのかキチンと聞いていなかった。


 が、教頭の「それでは今日も一日よろしくお願いします」という、いつもの最後の挨拶だけはやけに大きく耳に聞こえ、パッと目に生気が戻り、机の上にある出席簿と、昨日、一昨日の宿題を見終えた子供たちに返す漢字プリントの束を持ち席を立つと、沙絵はいそいそと職員室を出た。


 今朝の様子で大也と美咲のことがやはり気になっていたのだ。朝、教室を見た限りでは、2人におかしな様子はなかったのだが、沙絵は今までと同じように、できるだけ教室で子供たちといる時間を長く持とうとしていた。


 職員室を出て、校長室を通り過ぎ、保健室を通り過ぎ、階段を通り過ぎたところで、ふと、沙絵は何の気なしに後ろを振り返った。何の気なしとはいえ、そこはやはりその階段を上に上がるはずの志保のことが、瞬間、気になったのだ。


「えっ?」


 今、沙絵は自分が目にしたことの意味がよくわからなかった。


 志保はその時、ほんの少し右斜め後ろに目をやり、その視線は少しだけ斜め上にあり、誰かと会話でもしているように、頷いたのだ。


 沙絵は自分の目にしたものの意味がわからず、一瞬、その視線を外すことに時間がかかってしまった。そして、その視線を前に戻した志保と、その目が合ってしまったのだった。


「ダメ―――ッ」


「あぁ―――だいやーーーっ」


 その大きな声に弾かれるように肩をビクッとさせ、沙絵は一目散に教室に向かった。


 沙絵が教室の扉を開けるのと、優太がそれを内側から開けるのとどちらが早かったのか、扉が開いた瞬間、2人の身体がぶつかり、優太が弾かれるように後ろに尻もちを着いた。


「優太さん、大丈夫?ごめんね、ぶつかっ……」


 慌てて沙絵がしゃがんで、優太の腕に手をやり起こしながら声をかけると、


「先生、大也が、大也が、」


と、優太が大也の席の方を指さした。


 すると大也の席の後方に、クラスの何人かの子が駆け寄っていたので、沙絵は教壇に荷物を置き、急いでそこまで行くと、大也が机の後ろにひっくり返るようにして気を失っていたのだ。


「大也さん、大也さん、どうしたの?誰か保健の先生を呼んできて」


「どうしたの?大丈夫?」


「あっ、波多野先生、また大也さんが……」


 大きな声を聞いて、様子を見に来た主任の波多野が保健室に向かってくれたので、沙絵は床に当たっている大也の頭の下に掌を入れると、


「誰か、どうして大也さんが倒れたのか見ていた人はいる?」


「大也くん、きゅうにダメ―っていって、そしたらうしろへドーンって」


そう答えてくれたのは、大也の隣の席の杉山栞だった。


「栞さん、大也くん、あたまゴツンしたかな?」


「う~ん、わかんない。あしをうしろに一つ二つしてドーンだよ」


 そう言いながら、大也が倒れた瞬間の動きを再現するように見せてくれた。


 それは大也は後ずさるようにして、先程の優太のように、尻もちを着くような形で倒れ込んだ姿だった。


 その栞の動きが正しければ、頭は打っていないようだが、養護の大野が来るまで大也は動かせない。


「さあさあ、みんなは席に着いて、朝の読書をしていてください。さあ、優太さんも、お尻大丈夫?だったら席に着いて」


 沙絵にくっついて横にきて大也を心配そうに覗き込む優太にもそう声をかけ、「うん、だいじょうぶ」と頷いた優太は、何度も大也に目をやりながら自分の席に向かった。


 ほどなくして養護の大野が小走りで教室にやってきた。


「友井先生」


「大野先生、大也さんがまた意識をなくして、まだ戻らないんです。倒れ方も見ていたのが子供たちばかりで、頭は打っていないみたいですけど、それも確実かどうか……」


「ちょっと見せて」


 そう言うと、大也の頭が床に着かないよう、その間に挟んでいた手を沙絵と代わり、反対の手でそっと全体に触れていると、大也が目を覚ました。


「ああ、よかった。大也さん、大丈夫?どこか痛い?頭をぶつけた?」


「ううん、いたいとこないよ」


 そう言うと、大也はいきなり立ち上がろうとしたので、大野がそれを制し、


「大也さん、ちょっと待って。まず右を見て」


「こう?」


大也が右側に首を動かしながらそう言った


「じゃあ、次は左」


「こう?」


 大也は左側に顔を向けた。


「じゃあ、上向いて、下向いて」


 クスクスとくすぐったそうに笑みを漏らしながら、大也は大野の言葉に従い、ゆっくりと首を上下に動かした。


「大也さん、気持ち悪くない?」


「うん」


「よかった。とりあえず頭は大丈夫みたいだね」


 大野と沙絵は顔を見合わせて、ホッとアイコンタクトで安心を示した。


「じゃあ、大也さん、ちょっとこのまま先生と一度保健室に行きましょう」


 そう言って、大野は大也を抱え上げ、沙絵にひとつ頷き教室を後にした。

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