第46話 別人
「美咲さん、おはようございます」
美咲にそう声をかけたとき、美咲が自分のお腹の辺りに視線を止めていることに沙絵は気付いていた。
もともと美咲という子は大人しく、あまり人と目線を合わせないところがある子で、その視線の置き方は普段通りといえばそうなのだが、沙絵は何か違和感を覚え、しゃがんで美咲の視線に目を合わせようとしたところ、後ろで結美が美咲を呼んで、美咲の視線がお腹から外れた。
美咲と結美を目で追うと、杉田志保も美咲を目で追っていることに気付いた。
やはり、美咲に何か違和感を感じる。杉田も、それに気づいたのではないか。
美咲が靴を上靴に履き替え教室に向かうと、沙絵は周りに他の先生がいないことを確認し、杉田に声をかけた。
「杉田先生」
そう声をかけられ、美咲を目で追っていた志保は沙絵の方に振り返ると、沙絵が近寄ってきた。
「私の気のせいかもしれませんが、美咲さん、なにかその……いつもと違うというか、もしかしたら大也さんが言うように、今、美咲さんの中に……」
志保の耳元でそう囁きながら、
「って、すみません。私どうかしてるわ」
やはり沙絵も何か感じているんだなと、その勘の良さにも驚くが、そう思っている自分にも、美咲が今どういう状況なのかよくわかっていないのだ。
「さあさあ、まだ子供たちが登校してくるわ。そんな顔してたら子供たちが不安になるから」
志保はそう沙絵に声をかけると、自分のクラスの子たちが上がってくる高学年の下駄箱に戻って行った。
沙絵は昇降口の窓の外側に戻ろうとして靴を履きかけたが、美咲の様子とすでに教室にいる大也のことが気になり、2人が顔を合わせたときに何か起こらないか不安になり、そのまま教室へと向かった。
下駄箱からすぐのところにある教室の前のドアから中を覗くと、大也はランドセルから中身を出し、ランドセルをうしろの自分の名前の貼ってある棚に置きに行くところだった。
美咲はと、目を巡らせると、廊下側2列目、真ん中の自分の席へとランドセルを置き、前の席に同じようにランドセルを置いた智世と何やらニコやかに話をしていた。
何のことない光景だが、その当たり前のような姿に、やはり違和感を感じずにはいられない。
あんなに大人しかった美咲が、クラスのリーダー的存在の智世とあんなにも自然に話せているとは、沙絵にはそれが不自然に見え、大也に目を移した。
大也はというと、教室の後ろで優太と何やらじゃれ合っていて、笑い声がここまで響いてくるようで、沙絵はその姿に安心して、ひとまず職員室に戻り朝礼と授業の支度をしてこようと、顔を背けようとした瞬間、大也の顔が美咲に向いた。
その大也の目は、まるで用心深く何かを探るような目で美咲を捉え、その視線は次に沙絵に向いた。
「えっ?」
その大也の目は、何か訴えるかに見え、そしてまた視線は美咲に戻っていた。
わからない。どうしよう。
大也は何か私に伝えたいのではないか、そうは思っても、それが何なのか自分にはわからないことが沙絵にはもどかしく、けれど自分にできることは、何があってもこの子たちを護ることだと腹に上げた手をぎゅっと握りしめ、教室を見渡して、微笑んでその場を離れたのだった。
教室を離れて下駄箱に戻ると、靴を履いて昇降口を出て職員の下駄箱に向かった。
上履きに履き替え廊下に出ると、そこに思いがけない顔を見つけた。
「せーんせ」
「大也さん。どうしたの?さっき教室にいたでしょ」
「せんせ、かがみだよ。かがみを教室にかざるといいよ。ほら、あれみたいに」
そう言いながら、大也は沙絵の手を引いて、校長室へのドアの横の柱にかかっている、幅が柱のサイズほどの細長い鏡のところに連れて行って、指を差した。
「あれ?ああいう鏡がいいの?教室にかけるの?」
「うん。ふわふわさんはまぶしいのがきらいだから」
「そっか、ふわふわさんは眩しいのが嫌いなんだね」
そう言いながら、今、ここに2人しかいないことにハタと気付いた沙絵は、既にあらぬ方に目をやる大也にこう聞いてみた。
「ねえ大也さん、教室にふわふわさんがいるの?美咲さんにふわふわさんが入っているの?」
「美咲ちゃんにふわふわさんが入っているよ。こわいふわふわさん」
「怖いふわふわさん?怖くないのもいるの?」
「いるよ。ぼくはこわくない」
そう大也は確かに言った。その瞬間、目の輝きが一つ消え、大也は力が抜けたように沙絵に向かい倒れ込んできた。
「大也さん、大也さん」
「せんせ、今日ぼくおとうばんさんだから、ごようはありますか?」
沙絵が呼びかけると、大也はすぐに意識を取り戻し、何事もなかったようにそう聞いてきた。
「大也さん、今日はご用はありません。先生が行くまで静かに待っていてください」
大也は一つ頷くと、背を向けてスキップ交じりの小走りで廊下を進んでいった。
その足取りはとても軽く、先程の大也とは別人のように思え、それは美咲の姿と重なり、沙絵は背筋から身体中に広がる鳥肌にひとつ震え、職員室に向けた目は杉田の姿を求め探していた。
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