第45話 想い
その日の朝、志保は何げなく手鏡をカバンに入れた。
以前、母がどこだったか旅行に出かけたときに土産に買ってきてくれた手鏡で、木の細工で鏡の裏側に何かの植物が木彫りされているもので、当時はまだ若かった志保は、婆臭いなぁと思い鏡台の引き出しにしまい込んでいたが、40過ぎた今、この彫りの凄さ素晴らしさ繊細さが多少はわかるようになり、必要に応じて持つようになっていた。
「護ってね」
どんな物でも、物にはたくさんの人の手が通ってきていて、特にこうした細かな手作業が入ってできている物には作り手の心が込められていて、それが持つ人を護ってくれることもあるものだと、母はこうしたものをくれる度に口にしていたのだった。
それゆえ、いつの間にか志保もこうした特に人の手が、心が込められたものに対して、いつも「護ってね」と心で思ったり、口に出したりしてしまうのだった。
その手鏡は鏡の部分が手に納まるほどの大きさで、持ち手が小さくついている物だった。
朝、学校に着くといつものように昇降口へと向かった。それは登校してくる子供たちを出迎えながら、様子を窺うためだった。
この学校に来る前、その前と、以前からずっとそうしているので習慣になっていて、おかしなもので、続けていることを途中で止めると、何かいつもと違うことが起こるのではないかという漠然とした不安のようなものがあって、ゲンを担ぐという意味でも、これが志保の朝のルーティーンになっているのだった。
それは20年も前に桑田とのことがあったこととも影響しているのかもしれない。
それが自分の中でどう結びついてしまったのかは志保にもわからず、ただ、『いつもと同じ』ということだけが志保の中で大事なことになっているのだと、志保自身もそのことについて深く考えようとすらしないでいた。
いつものように、靴箱の上の盛り塩を確認し終わった頃、人の気配を感じた。
「おはようございます」
「おはようございます。波多野先生、今日も早いですね」
「杉田先生ほどでもないわよ。毎朝ご苦労様」
1年の主任である波多野も、大也の一件から子供たちがざわついていることを感じ取って、毎朝子供たちが登校するより早く昇降口に来て、子供たちの様子を見ているようだ。
そのうち、沙絵もやってくるだろう。沙絵についている子が、もうここにいるのだから。
私たちはいつだって子供たちを第一に考え、子供たちの心身が穏やかに健やかに日々を送れるよう心を砕いているのだ。
「おはようございまーす」
「はい、おはようございます。拓也くん、今日も早いね、また一番だよ」
「へへへっ、怪盗ドロンの続き借りるんだ」
「そっか、でもまだ図書委員が来てないわよ」
志保のその言葉に口を尖らせ、毎日早く登校する4年生の稲辺拓也は階段を上っていった。
それが合図のように、次から次へと子供たちが登校し始めた。
その中には大也と、その兄弟たちの姿もあり、この日は土間に降りてガラス戸の外側に立つ沙絵は、意識していない風ではあるが、明らかに大也の様子を特に注視しているのが見て取れたが、大也は何事もないように教室に向かい、その姿が見えなくなってしばらくすると、美咲が結美と姿を現した。
「美咲さん、結美さん、おはようございます」
沙絵がそう声をかけたのが聞こえ、何気なくそちらを見ると、まるで何かから沙絵を庇うかのように、沙絵の目の前で沙絵についている子がピタリと沙絵について美咲と対峙していた。
「えっ?」
志保は急いで廊下に上がり沙絵のいる靴箱の通りに向かうと、美咲はまるでそれが見えているように、沙絵についている子を睨みつけていた。
「おはようございます」
なんとなく不安を感じて、ひときわ大きな声で、美咲と結美に向かって声をかけると、結美が「おはようございます」と返すと、後ろ向きで立ったまま動こうとしない美咲に向かって声をかけた。
「美咲ちゃん」
その言葉に美咲がこちらを向くと、一瞬虚ろな顔に見えた美咲の目が志保を捉えた。
「えっ?」
一瞬だが、志保は何か不思議な感覚に捕らわれた。
……あれ?なんだかあの子、知っている?……
そう思った瞬間、自由人健太がまるで壁にでもなるように、志保の目の前に立ち美咲と対峙した。
「えっ?なんで……」
目の前に自由人健太が立ちはだかっていても、志保には美咲が見える。
あれ?やっぱりなんだか、あの子を知っているような気がする。
いやだ、どうしちゃったんだろう?知っているのは当たり前だ。
あれは沙絵のクラスの美咲だ。一瞬の自分の感覚がどうにも可笑しくて、志保は小さく笑みを漏らしながら首を振った。
それにしてもだ。
沙絵についている子も、自由人健太も、なんだか美咲を警戒しているようではないか。まるで美咲から自分たちを庇うような……
志保はそこでハタと気付いた。
沙絵についている子も自由人健太も、大也の言っていた
「美咲に入っているふわふわさん」
というものを警戒しているのではないか。志保には見えない、その「何か」いや、「誰か」それはやはり、あまりよくないものなのではないか。
結美と手をつなぎ教室に向かう美咲を目で追うと、志保の前に立つ自由人健太が同じように動いた。
『私を何かから護ってくれているんだね』
いつも、ずっとこんなふうに私を護ろうとしてくれる自由人健太の存在が、愛おしくも哀しくなり、志保は自分にしか見えない自由人健太に近寄ると、抱きしめるように同化した。
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