第44話 鏡3



「ねえ、鏡が嫌いなの?」


 志保は部屋に入るなり、自由人健太に問いかけた。もちろん返事はない。


 自由人健太が志保にくっつくようになって20年が経つが、その間、何度も何度も志保は自由人健太に問いかけてきた。返事がなくても、何度も何度もだ。


「なーんにも言ってくれないんだね……」


 志保は大きな溜め息とともにその言葉を吐き出し、今夜もまたコンビニで買ってきたパスタ弁当をレンジに入れ、チンする作業に入った。


 朝はパンとバナナを和えたヨーグルト、夜はコンビニ弁当、こんな食事が多くて、独り者で手抜きで栄養に偏りができてしまうけれど、平日の昼には栄養バランス満点の給食を食べているので、それで帳消しだと志保は自分を納得させ、若い頃には多少は自炊を頑張っていたが、ここのところはずっとこんな調子になっていた。


 毎日『男』が部屋にいて自分を見ているけれど、返事も食事もしないその『男』は、志保が何を食べようと興味のなさそうな顔をしているので、いつからかその目も気にならなくなっていた。


 食事を終え、先に風呂に入ろうと洗面所に向かうと、当然だがそこにも鏡があった。今の今まで、洗面所や風呂に入ってこない自由人健太は、さすがにそこは遠慮しているのかと思っていたけれど、見方を変えると、ここにも鏡があるために入ってこないのかもしれないということに、はじめて思い至った。


「ねぇ、一緒にお風呂に入る?」


 返事はないだろうが、我ながら変なことを聞いたものだとクスリとし、いつもと同じように替えの下着をタオル棚に置き服を脱ぎ始めた。


 風呂に入りながら、志保は沙絵とのやり取りを思い出していた。


「あれ?そういえば、踊り場にも鏡があったけど、自由人健太は特にそこを避けるようなことをしていなかったな」


 と、鏡が嫌いでエレベーターや洗面所にこないんだとたった今思っていたことに多少の矛盾を感じた。


「あ、もしかしたら……この鏡のせい?」


 風呂場にもあるシャワー前の鏡を見て、その鏡越しに洗面所の鏡を見た。


「そうか、鏡が2つ……エレベーターも扉の内側が鏡のように姿が映ってた」


 志保は大也の言ってたという「ふわふわさんは眩しいのが嫌いだから鏡を持っているといい」という言葉を思い出していた。 


 鏡が2つ必要だということかしら。……と、何に必要なのかしら?


 美咲の中に入っていく「ふわふわさん」大也はそのことに恐怖を覚えていた。けれど、あの子は自分で気付いていないようだが、大也もそれらと同化してしまうような瞬間はあるのだ。


「同化というのはどうかな?」


 そう声に出し、意図せず同化とどうかがかかり、思わず志保はまたクスリとした。


 いや、冗談はさておきだ。


 沙絵と大也が一緒にいる時、沙絵にくっついている子が大也を通り過ぎたり、ちょうど大也が沙絵についてる子と重なるように立ち止まってしまうことがあるのだが、大也はそのことには気づいていないということだ。


「自分のことには気づかないものなのかな。でも私には自由人健太がわかる」


 自分の方が、感じる力が強いのかもしれないと、志保は大也が見えてしまうことが時と共にいつの間にか消えてしまうといいなと思った。見えないほうが、知らないほうがいいことってあるから。


「さてと」


 考え事をしているうちに、いつもよりもだいぶ長く湯船に浸かってしまったと、立ち上がった瞬間、ふわっとする感じがし、よろめいた。


「のぼせちゃったなぁ」


 壁に手を付きしばらく待つと、志保は湯船を出て軽く身体を拭きバスタオルを身体に巻いたまま廊下に出た。すると、まるでそれらを見ていたように、ドアの前で自由人健太が心配するような顔で、志保を見ていた。


「わっ」


 そこに自由人健太がいるとは知らず出た志保は、自由人健太の身体に一瞬同化した。


「ビックリした。もう、いきなりそんなところに立ってるから避けられなかったじゃないの」


 でも、特に嫌な気はしなかった。


 今までもそうだった。


 偶然、こんなふうに自由人健太と同化したり、通り抜けたりしたことはあり、けれど今までそれが嫌だとか鳥肌が立つだとか、そうしたことは一度もなかったのだ。


 大也が美咲の中に入るふわふわさんが怖いと言っていたのは、もしかしたら、そのふわふわさんというのは、自由人健太や沙絵についている者たちとは違い、いわゆる『よくない霊』なのかもしれない。


「なんで私はそれが見えないんだろう?」


 素朴な疑問だった。


 大也の話を聞いていると、大也には見えている者はごく一部だろうと思う。それと比べて、自分にはかなりの者が見えている。なのに、大也の怖れる者だけが見えない。


「あっ、もしかしたら大也君は『怖いこと』に敏感なのかもしれない。だからそういうものをまるで嗅ぎ取るように気付いたのかもしれない」


 いったいそれは何者なんだろう。


 自分に見えたら、少しは大也のために何かできるのかもしれないのに。


「クシュン」


 志保はくしゃみと共に身震いをし、自分が風呂上がりでバスタオルのままだったことに気付き、洗面所に戻り下着を持つと寝室に入り、パジャマ代わりにしているスウェットに着替えた。


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