第42話 鏡



 沙絵にはまさかと半笑いで誤魔化したけれど、沙絵の言う『入り込む』という出来事については、実は志保も目にしたことがあった。


 いや、正確には『通り抜ける』だ。


 そもそも誰にも見えていないのだから、そこにいるとは知らずに、生きている人が自分の方からそこを通ってしまうことだってあるのだ。


 そして、偶然そこで立ち止まってしまうことも。


 それを入り込むというのならば、そうなのだろう。


「その美咲さん、学校では大人しくても、実は家では真逆のタイプってことはない?」


「家庭訪問の時、そんな話をしたんです。確かに大人しいけれど、普通に学校の話もよくしてくれるそうで、美咲さんが私にお茶を出してくれたんですけど、ちゃんと『お茶どうぞ』って言ってくれて、学校でのモジモジした感じはなくて」


「だんだんさ、慣れてきたってことなんじゃないかな。学校にいるときも家にいる時のような美咲さんになってきたってことで、自然にいられるならよかったんじゃない?多少なりとも積極的になってるなら新しい友達だって、もっとできるかもしれないよ」


「そうですかね」


 最近の美咲の様子を見ていると、どちらかといえば別人に思えるときがあるのだけれど、沙絵はそれらも大也の言った「ふわふわさんが入ったまま」という言葉に、自分が影響されているだけかもしれないという思いもないとはいえず、しかも憑りつかれているなどということを他人のこととして聞かされても、それを信じるかと言われれば、信じる自信はない。


「とりあえずこれもしばらく様子を見るってことで」


「そうですね、そうします」


「さてと、じゃあ帰ろうかな」


「すみません杉田先生。もう一つ話をしておきたいことがあるんですけど」


 両手の指を絡ませ、大きく伸びをして立ち上がろうとした志保を、沙絵は引き止め、首から下げている懐中時計をブラウスの首元から引っ張り出すと、それを志保に見せた。


「この懐中時計のうしろ側の部分が鏡になっているんですけど、前回の大也君と美咲さんの一件の数日後に、大也君が、ふわふわさんが怒っていて、ふわふわさんは眩しいのが嫌いだとかで私に鏡を持っているといいって言ってきたんです。それで私が鏡を持っていることで大也君が安心するならばと思って、これ、首にかけているんですけど」


「あら、素敵な懐中時計ね。細工がとっても綺麗」


「あ、これ、母のものなんですけど、新婚旅行で父が買ってくれたとかで」


「へぇ、これまた素敵な話ね。で?なんで大也君、ふわふわさんが眩しいのが嫌いなんて知ってるのかしら?いえ、知っているというか、そうなの?」


「私にもその辺はわからないんですけど、どう思います?」


「どう思いますって聞かれてもね……私にもわからないわ。でも大也君が安心するから持っていることには賛成だわ」


「ですよね、よかった」


 ああ、それを確認しておきたかったんだなと、志保は安心顔の沙絵を見て、そこでハタと気付いた。


 アレがいない。


 そういえばここのところ沙絵にくっついていた自由人をあまり目にしていないことに気付いた。


「あ、友井先生、私、教室に忘れ物しちゃったから行ってくるわね」


「はい、聞いていただいてありがとうございました」


 連れ立って図書室を出ると、志保はすぐ左手にある階段を上へ上がっていった。踊り場で足を止めると、手すりから下を覗き、下へ降りていく沙絵をしばらく見たが、やはり沙絵の周りに自由人がいない。


「ねえ、沙絵さんのアレ、あんた知らない?」


 思わず口に出してしまってから、誰にも聞かれなかったわよねと、周りを見回して誰もいないことを確認した。


「ねえ、あんたたちって眩しいのが嫌いなの?鏡が嫌いなの?って、返事があるわけないか」


 わかりきったことなのに、いまだについ話しかけてしまう癖が抜け切らないことに可笑しくて、鼻から息を吐きながら笑みが零れ、自由人健太を見た。


 と、また一つ気付いて、貼り付いた笑顔のまま固まった。その時、志保は自由人健太を鏡越しに見たのだ。


 その、踊り場の壁にある寄贈された大きな鏡に、自由人健太が映らない。


 今さらこんなことに気付くなんて、もう20年も自由人健太がずっと近くにいたのに、今まで気にもしなかったけれど、そこで改めて気づいたのだ。鏡に映らない彼らのことを。


「そうか、だから大也君、そう思ったんだな」


 こういうことは案外子供の方が気付きやすいのかもしれない。けれど、鏡に映らないからと言って眩しいのが嫌いかどうかは、わからないな。


 そう思いながらも、志保は家にちょうどいいサイズの鏡があったかなと、思いめぐらしていた。

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