第37話 知らない振り



「ふわふわ?」


 志保はその言葉に反応して、つい声に出てしまった。


「ああ、杉田先生、『ふわふわさん』って、何かわかりますか?」


 友井沙絵にそう聞かれた志保は、そういえば大也は沙絵のクラスだったなと思い、大也は沙絵にもふわふわさんの話をしたんだなと思い至り、自分はどう答えたものかと目まぐるしく脳をフル回転させて、ただの噂にしておこうと思ったのだが、大也の言っていたもう一人のふわふわさんの存在が気になり、ある程度知っていることを話すことで、そのふわふわさんを知りたいと思ったのだ。


 それにここで適当に誤魔化して、あとで辻褄が合わないようなことを口走ることがないともわからず、自分が見えること以外は話すことにした。


 そしてもう一つ、桑田の動きを変に思われることがないよう、盛り塩についても少しだけ触れておくことにしたのだった。


 そんな話を沙絵にしたすぐ後のことだった。


 桑田はその日も朝早くから学校に来て、全ての盛り塩を見て回っていた。


 ここも大丈夫だな。子供たちの出入りが多かったのか少なかったのか、これを見ると想像がつくなと、図書室の本棚の上にちょこんと綺麗なままの盛り塩を見て、昨日は振動が少なかったんだな、壊れていないのは嬉しいが、もう少し読書を進めて行かないといけないなと思いながら、机から下り手にしていた雑巾で机の上を拭いた。


 図書室を出てすぐの左にある階段を上がると、理科室に入って行った。


 理科室では盛り塩をするのにちょうどいい場所がなく、隣の理科準備室にある棚の上にそれを作った。その盛り塩を見るため、いつも通り理科室で使っている木の椅子を二つ棚の前に置き、その上に一つ置くと、その上に立って棚の上に顔を出すと、壁側に作ってある盛り塩が壊れていたのだ。


 しかも、いつものように振動で崩れたようではなく、何か棒のようなもので叩き壊したような壊れ方をしており、


「どういうことだ……誰が……」


そう呟いたとき、何か物音がしたような気がして身体をうしろに捻ろうとした瞬間、身体をうしろに押されたような感覚と共に、腰から床に落ちたのだった。


「うっ……」


 痛みで声が出ない。


 桑田はとりあえず床に手を置き、そっと、ゆっくりと身体を起こしたが、腰を打った痛みでなかなか立ち上がれないでいると、遠くから微かに足音がして、それが大きくなると誰かが理科室に入ってきたのがわかった。


「志保」


「どうかしたんですか?大きな音がして……」


「落ちちゃった」


「落ちたって、ここからですか?大丈夫ですか?どこ打ちました?」


「ちょっと腰をね、でも静かにしていたから大丈夫だよ、だんだん痛みも引いてきたし」


 そういって立ち上がろうとする桑田に志保が手を貸すと、桑田は顔をしかめなんとか立っているというふうで、とても歩けるようには思えなかった。


「救急車呼びましょう。折れていると困るわ」


「いや、大丈夫だよ。折れていたら立てないだろう。すまないが手を貸してもらっていいかな。下まで、いや、車まで、人が来ないうちに」


「わかりました。それでどうしますか?ご自分で病院へ行かれます?」


「そうだな、とりあえず様子を見るようにしようかと思うよ。校長には連絡を入れておくけど、志保、ここでのことは誰にも言わないでくれ。子供の耳に入ったらいけない」


「わかりました。じゃあ、痛いでしょうけど急いで」


 志保の肩に右の手を回して桑田は何とか歩き始めた。


 腰に痛みはあった。けれど、肩に手を回した時、志保から懐かしい匂いを感じ、桑田は痛み以上に胸に鼓動を感じ、なんとも切ない気持ちになった。


「志保」


「あっ、痛みますか?」


「いや、志保、……ありがとう」


「急ぎましょう。もうすぐ7時になるわ」


 志保は肩に桑田の腕を感じ、この人こんなに腕がごつごつしていたっけ?と、20年前より骨ばった腕を肩に感じて、決して短くはない20年の歳月を、その頃と全く変わらない姿形をした自由人健太からは感じられなかった『生』の時を感じ、失った歳月の意味を今さらながら感じさせられていた。


 自由人健太は、そんな2人の……桑田の目の前で桑田を睨みつけたままで、以前は桑田を護っていたはずだったことを思うと、志保はそれがただただ心苦しく、どうしてこんなことになってしまったのかと心痛めるのだった。



「桑田先生がお休みするとなると、あれ、誰がやるんでしょう?」


 翌日、桑田の怪我は思ったより酷かったようで、体調を崩したという理由でしばらく休養に入ることになり、沙絵は盛り塩のことを知っている志保にあれは誰がやるのだろうと心配になり聞いてきたのだった。


 沙絵は大也の言うふわふわさんの存在に気を取られ過ぎている。


 沙絵の最近の言動からそう感じていた志保は、教頭でもやるんじゃない?と、適当に誤魔化しておいたけれど、あの分だと毎日のように確認しかねないなと思い、自分が盛り塩をチェックしているところを見られないように気をつけなければいけないと、なんだかめんどくさいことにならなければいいなと気が重くなってきていた。


 そんな時、沙絵のクラスの大也が気を失うという出来事があったのだ。


 志保は大也の様子が気になり、沙絵の話を聞きたいと思い、授業が終わるたびに早々に職員室に戻り沙絵を待ったが、どの休み時間もタイミングが合わず沙絵と顔を合わせられないまま、ようやく話が聞けたのはその日の授業を終え、帰りの会も終え、職員室に戻ってきてからだった。 


 自分の席に座っている沙絵を見つけると、腕に子供たちの算数ノートを抱えたまま一直線に沙絵のところに向かった。


 はやる気持ちを押さえ、両隣りと向かいの席に先生方がいないことを確認し、声を押さえ沙絵に話かけた。


「友井先生、大也君の様子はどうですか?なぜ倒れたんでしょう?ふわふわさんとやらと何か関係があるんでしょうか?」


「そうなんですよ!大也君、なんかおかしなこと言うんです。ふわふわさんが怒ってるとか、身体を通り抜けるとか……」


「えっ?通り抜ける?」


「はい。どうやらその瞬間、大也君は気を失ったようなんですけど、そのふわふわさんは美咲さんの身体から出てきたとか何とか言ってて、こういう話は親御さんにもしていいのかわからなくて、養護の大野先生にもまだ話していないのですが、どうしたものか私も杉田先生の意見を聞きたいと思っていたところなんです」


「そうね、難しいわね。そういう私たちには目に見えていないものの話を全面的に信じて人に話すというのは、なかなか勇気のいることよね。どうでしょう、しばらく様子を見てみましょうか。そのふわふわさんというものが、本当に存在するのか、それとも本かテレビか何かで見たものの印象が強くて、大也君のなかで姿形になって、そこにいるように話しているのかもしれないし」


「そうですね。しばらく注意して見るようにします。それともう一つ……あの、ちょっといいですか?」


 そう言って沙絵は志保を職員室から連れ出し、職員トイレに連れて行くと、手洗い場の下を指さし、


「この盛り塩、朝はなかったんです」


 そうなのだ。

 

 この盛り塩はなくなっていることに気付いた志保が、つい先ほど作り直したものだった。


「なかった?」


「そうなんです。これもですけど、女子児童のトイレも、下駄箱のもなくなってて、さらに言うと、昨日の帰りにこれを見たとき、壊されていたんです」


「壊されていた?」


 おかしいと志保は思った。

 

 昨日の帰り、志保はその盛り塩の存在を確認していたのだ。帰りにあったものが壊されていた。そして今日、それがなくなっていたこともおかしいと思っていたのだ。


「この盛り塩の存在を知らない先生が、なんだろうと思って掃除のとき片付けてしまったのかもしれないわね」


 トイレの場合、水をまいたときに壊してしまうことはあり得ることだと思っていたが、下駄箱の上のまでなくなっていたことには、志保も変だなとは思っていた。


「もしかしたら、今朝の大也君、それが原因だったんじゃないですかね?」


「盛り塩がなかったから、ふわふわさんが悪さしたとか?」


「杉田先生、ふわふわさんの存在、信じますか?」


「う~ん、どうだろう。見えないものを信じることはしたくないんだけど、大也さんがいると言うなら、いるのかもしれないわね。というスタンスをとろうとは思う」


「ですよね。私も見えないものを完全に信じるという自信はありませんけど、見えているという大也君のことは受け入れていかないといけないのかなと思います」


 沙絵が見えないというのは本当だろう。沙絵には、いつもくっついている自由人がいるのだ。いや、くっついている自由人というか、くっついている子と言うべきか。


 それは、大人にはなっていない子なのだ。


 志保は、大也にもその子が見えているのだろうと思ったが、通り抜けたというのは、自由人健太なのかもしれないと思っていた。桑田が休みに入る前、自由人健太が桑田に向けた顔がとても気になっていたのだ。それに、自由人健太は、志保に近づこうとした桑田との間に入り、桑田の身体を受け止めるようにそこを通り抜けた。自由人健太は、ずっと護っていたはずの桑田に、敵意を持っているかもしれない。20年前の、あの日から。

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