第36話 もう一人
桑田は赴任してきた初日に自分の身体に起こったぞわっとした感覚が忘れられず、翌日校長に自分が以前この学校にいたこと、当時から盛り塩をしていることを知っていることを話し、その役目を自分にやらせて欲しいと頼み、校長は自分の手間が省けるのは有り難い申し出だと、快くその役目を譲ってくれたのだった。
校長の杉村は、桑田が自分の仕事の手伝いをしてくれようと申し出てくれたのだと思い、まさか桑田にそれ以外の意図があるとは想像すらしていなかった。
桑田はその日から確実にそれがあるべき場所に山になっているように気を配るようになっていた。
朝も自分が一番に職場に入るように心掛け、それを知らない教員たちに気付かれることのないよう、毎朝全ての盛り塩の確認をし、それに手を合わせ、自分を含めこの学校で何事も起こらないよう祈っていた。
そして自由人健太が通り過ぎた桑田の様子を注意深く観察していた志保は、桑田のそんな様子を目にし、自分が知らない20年の間、ずっと桑田には見えない存在を気にかけたことが窺え、自分の言った言葉、桑田の弟の健太の存在を明かしたことを、また後悔していた。
そしてそんな時、志保はこの学校で、一人の子供と出会ったのだった。
「いっち、にい、さーん、」
昇降口近くの階段を下りてきた志保は、階段を一つずつ数えながら手すりを持ちジャンプするように階段を上がり始めたその子を目にし、明らかに1年生とわかるその小さい子供に、
「どこに行くの?階段をジャンプすると危ないから、ゆっくりね」
その子供はそう声をかけた志保に目をやると、その視線は志保を外れ空を見つめると、ニッコリと微笑み、
「せんせ、ふわふわさん」
いきなり自由人健太を指さし視線を志保に戻してそう言った。
「えっ?ふわふわさん?」
「そう、ふわふわさん。ふわふわさん、こんにちは。こっちのふわふわさんも、こんにちは」
「えーと、君の名前は?なんていうの?」
志保は子供の名札に目をやり、『1-3 たのうえだいや』という名前を確認しながらそう聞くと、
「ぼく、大也だよ」と答えが返ってきた。
「大也君かあ、ねえ、ふわふわさんって、なあに?」
この子、今、こっちのふわふわさんもと言った。
こっちのとは、どういうことだろう?
大也には、自由人健太が見えているのだろうということには察しがついた。先程自由人健太に視線を移した時、ああ、この子は見えるんだなと思ったのだ。
今までにも、もしかしたらこの子は自由人健太の存在に気付いているんじゃないか、ハッキリは見えなくても、何か違う空気を感じているのではないかと思えるような子供に出会ったことがあった。
もともと志保自身もそんな子供で、ハッキリと見えていたわけではないが、何か異質なものを感じていたことは確かで、それが、あの夏のマー君の存在で、それが自分で『見えた』と、意識した瞬間だったのだ。
けれども、こうもハッキリ見えていることがわかる子供に出会ったのは初めてだ。
しかも、そんな大也が、こっちのとも言ったのだ。
「ふわふわさん、ふたーつ」
「ふたつ?」
「うん」
ふたつ?ふたつって、2人いるってことよね。
志保に見えているのは、自由人健太だけだ。
途端に全身がざわざわと何かが浮き立つ感触があり、全身に鳥肌が立ったのだと気づいたとき、大也は既に階段の踊り場を曲がり、さらに上に上がり始めていた。
志保はその視線を自分の周囲へと移し、それをゆっくりと上下左右に2度ほど揺らしてみたが、志保のナナメ左後ろ2mほどのところに自由人健太がいるだけで、他は何も見えない。
志保は自分には全部見えているのだと思い込んでいた。
確かにこの学校には、健太以外の自由人が何人かいる。けれど、今この瞬間、志保に見えているのは自由人健太だけで、それ以外の自由人は志保の目には写っていない。
志保はそれに気づいたとき、桑田のことを思った。
何も見えない桑田が、この20年どんな思いでいたのか、そして再びこの学校に来て、盛り塩をして祈っているその姿を思い出し、あの時、桑田に自由人健太の存在を明かしたことをものすごく後悔したのだった。
桑田はきっと、弟の健太を想ってそれをしているのだろう。
そこにいるのが誰なのかなんて、きっと関係ないのだ。
志保は胸がキュッと締め付けられる思いがし、石を飲み込んだように何かが喉につっかえ、息苦しさを感じ、息を吸い忘れていたかのように、喘ぎながらそれをたくさん吸い込むのだった。
翌朝、志保は桑田が学校に来る時間に合わせるように7時前に登校すると、既に桑田の車があった。
職員室の桑田の机には荷物があり、既に盛り塩を見て回っているのだなと思い、桑田を探しに職員室を出ると、桑田はちょうど職員女子トイレから出てくるところだった。
「あ、いや、あの、覗いていたわけではありません」
誰もいないと思っていたところに志保が現れ、桑田は心臓が跳ね上がるほど驚き、その手は胸の辺りまで上がり、小刻みに揺れており、それを目にした志保は胸がキューっと摑まれる思いだった。
「桑田先生、これからは女子トイレは私が確認するようにしますから、もうこんなに早くに来なくても大丈夫ですよ」
桑田はその言葉にポカンとしたまま動いていた手が止まり、時間が一瞬止まったような間があり、それはすぐに桑田の溜め息と共に肩の力が落ちた。
「気付いていたのか」
「ええ。それと、この学校にいる者たちは、悪さはしませんよ。たぶんたくさんの元気な子供たちに癒されているのだと思いますよ。みなさん、穏やかな雰囲気ですから」
「そうか、よかった。それを聞いて安心したよ」
「すみませんでした。私、20年も前から随分とあなたを傷つけていたんですね」
「いや、そんなことはないよ。僕の方こそ、志保には本当にすまないことをした。妻との間にずっと感じていた違和感も、私への罰だったと思っている」
「そんなこと仰らないでください。奥さんが気の毒ですよ」
「そうだね、志保に久しぶりに会えて、変こと言ってしまったけど、家族は大事にしているよ」
「そうですね、それがいいです」
「じゃあ、他を見て回ってくるよ。女子用のトイレはお願いします」
そう言って、桑田は昇降口の方へ歩いて行き、児童用の男子トイレに入って行った。
それと同時に、志保は志保と桑田が話している間中志保に背を向け、その真ん中を塞ぐようにしていた自由人健太を横から追い越し、女子児童用のトイレに入ろうとしたときふと気になり自由人健太に目をやると、20年前のあの日、桑田の部屋にいた桑田の妻となった女性に会い、志保を追いかけるように志保についてきたあの日の自由人健太と同じ顔をそこに見たような気がした。
自由人健太は怒っている。桑田に対して怒っている。桑田に再開した日から感じていたその怒りの感情を、志保ははっきりそれだと確信した気がしていた。
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