第35話 変わらない

 あれから20年ほどが経ち、また同じ職場に、しかもまたこの学校とは、なんだかおかしな縁を感じてしまうのは志保だけではないはずだ。


 自由人の健太は、20年前からずっと志保を護るようにいつも身近にいて、志保はそれに気づきながらもどうすることもできず、それまでと同じように、人前では自由人健太がいることを意識しないよう過ごしていた。


 そして志保が異動した次の年、桑田がやってきたのだった。


 桑田は出勤したその日のうちに、志保と2人になるチャンスを窺っていた。志保はそんな昔と変わらない、考えてることが手に取るようにわかる表情や仕草の桑田に気付いて、なるべく一人にならないようにしていたが、そこは桑田が一枚上手だった。


 教務主任になっていた桑田は、学年主任である志保を呼びつけることが自然な形でできるのだった。


「杉田先生、ちょっといいですか?」


 その日の夕方、まだ春休み中の学校には子供の姿もなく、教員たちは早々に帰宅をはじめて職員室には数人ほどしか残っていなかったのだった。


 志保は心の中で大きく溜め息をし、桑田の席まで行った。


 その席は教員たちの席とは少し離れる形で月予定の書ける大きな黒板を背にして校長教頭の席と並んでおり、残っている教員たちが話をしている状況では、声を潜めれば聞こえないであろうことは想像できた。


「久しぶりだね。元気だった?まさかまたこの学校で一緒になるとはね……近いうちに2人で会えないか?」


 桑田は何事もなかったように他人ではない人を誘うような口ぶりで、何を言われるのか構えていた自分が本当は一番桑田を意識していたことを思い知らされたのだった。


「どんなご用件ですか?できれば学校でお願いしたいのですが」


「どんなって、久しぶりだから少し話がしたいなと思って」


「2人だけで会うような間柄ではないと思いますが」


 桑田の肩の力が抜けていくのが手に取るように見て取れた志保は、まだ自分を意識しているのだと思い嬉しくもホッとしたような、けれどもう私はあなたの特別ではないのよと、少しだけ優位に立てたようで、泣きたくなった。


「そうか。じゃあ一つだけ教えてくれないか?……この学校には、まだ……その、いるのか?」


「はい、そのようです」


「健太は……」


 一つだけって言ってたのに、と、心の中でツッコミを入れ、その問いにはただ首を横に振り、一つお辞儀をしてその場を離れ、席に戻った。


 それにしても、いまだに桑田が自由人健太のことを気にしていたとは、そう思ってはみたものの、弟が彷徨さまよっていると聞かされれば、気にならないほうがおかしいかと、あれから20年、事ある毎に自由人健太を気にかけていたのかと思うと、なんだか桑田にすまない気持ちにさえなってきたのだった。


 そんな言葉が聞こえていたのかどうかわからないが、自由人健太は久しぶりに桑田の姿を目にしたのか、志保が席についてもまだ桑田のすぐ近くにいるのだった。


 すると桑田は席を立ち、職員室を出て行った。


 カバンも持たずに出た桑田を見て、トイレでも行ったのかと思ったが、志保は何となく気になって桑田のあとを追うために席を立ち、出入り口へと向かった。


 職員室を出ると、ちょうど桑田が男子職員トイレから出てくるところだった。


 やはりトイレかと思ったが、それにしては出てくるのが早い。


 桑田はそのままこちらに背を向け、廊下を真っすぐ歩いて行った。


 志保はその後ろを少し距離を置いて、桑田に気付かれないよう追いながら見ていると、桑田は子供たちの昇降口で下駄箱の手前でつま先立ちをすると、すぐにそのまま進み、下駄箱の中間付近でまたつま先立ちをすると、こちらを向く気配があり、志保は咄嗟に児童用のトイレに身体をすり込ませた。


 桑田が戻って行く気配がなく、足音が離れて行くことに気付いた志保は、そっと顔だけ出して様子を窺うと、桑田は階段を上がり2階へと向かっていた。


 距離を置いて追いかけると、桑田は2階にある図書室へと向かっているようだった。


 先ほどの下駄箱の様子から、たぶん図書室の盛り塩を見に行ったのだろうと察しはついていた。


 20年前と変わらず、この学校のいたるところに盛り塩があることには志保も気づいていたし、先ほどの話す様子から、桑田はまた自分に災いが降りかからないよう、ちゃんと盛り塩がしてあるのか確かめているのだろうことは容易に想像できた。


 志保はそのまま戻ろうと図書室に背を向け歩き出した。


「志保」


 その呼びかけに振り向くと、いつの間にかすぐそこに桑田がいた。


「あ、ちょっと教室に忘れ物をして……」


「志保のクラス、この階じゃないでしょう。来てくれたんだね」


「いえ、そうじゃありません。忘れ物を」


「志保、ずっと会いたかったんだ。でもそれはいけないと思って、でも志保のことを思い出さない日は一日だってなかったんだよ」


「あの、そういうこと言わないでください。何年経っていると思っているんですか?」


「何年経っても、志保を想っていた。ずっと後悔していたんだ。別れたくないと思っていた人が自分のところに戻ってきてくれて、浮かれてしまってたんだな。結婚した後も、妻との間には拭いきれない違和感がずっとあって……」


「やめてください。そんなこと今言われても、もう私には関係のないことですから」


 そう言って、志保は桑田に背を向け小走りで来た廊下を戻り始めた。


 妻との間って、そこで妻って言葉が自然に出てくるのに、今更違和感という言葉を使う桑田に、以前と全く変わっていない部分を見たようで、早くこの場から離れたくてたまらなくなったのだった。


「志保、待ってくれ、志保、志保」


 志保の名を呼びながら桑田は追いかけてきた、振り返った志保が目にしたのは、志保を追いかけてくる桑田の前で自由人健太がそれをくい止めるように、桑田の正面に立ちはだかると、桑田を抱え込むように桑田の身体と同化するように通り抜けたところだった。


「えっ……」


「えっ?どうかした?」


「いえ、すみません、なんでもありません」


「ね、志保、何か見えているんじゃないの?」


「いえ、すみません、もう帰りたいので失礼します」


 志保は咄嗟に腕時計を見て、そう答えて小走りで階段を下りて行った。


 取り残される形になった桑田は、身体中に膜ができたような、指先まで微かにしびれるような感覚になり、初めて自分を襲う感覚に恐怖を覚え、急いで志保のあとを追い職員室へと戻っていった。



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