第三章

第34話 別れ

 杉田志保は、桑田の弟と出会った頃のことを思い出していた。


 あの日、桑田を振り切ることができなかったために、桑田が結婚した後も1年近くズルズルと関係を続けることになった。


 あの日、桑田に憑いていた弟が離れたこと、護ってくれる人がいなくなったことを話した後、桑田が大きな怪我をしたのだ。


 志保は既に生きてはいない桑田の弟が護ってくれているのかどうかなどは本当はわからず、ただその時は桑田を振り切るためにその話をし、自分が生きていない人が見えることを話したのだが、桑田はそれに怯むことなく、志保への強い想いのまま志保を抱きしめたのだった。


 その時の桑田は弟が離れて護ってくれなくなったことなど、大して意識していなかった。


 自分に見えないものが本当にいるのかなど信じられずにいたが、志保の話が本当かどうかを考えるようになったのは、自分が事故に遭った日からだった。


 その事故とは、職員室での一件の一週間ほど後の出来事で、桑田が青信号で歩いて渡っていたところに、赤信号で止まった車が後ろから追突され、前の車が飛び出し撥ねられたのだ。


 まだ若かった桑田は、咄嗟に頭をかばう体勢をとり、その時に車に右腕と腰を打ち付け骨折したのだった。


 そしてその怪我は、桑田の感情とは合わないスピードでより結婚を早めることになり、逆に志保への想いを深めることとなっていた。


 若かった桑田の怪我は、2か月もすると杖をついて仕事へ復帰していたその杖も必要がなくなり、以前と何も変わらない日々になってきていた。


 ただ一つ、目に見えて変わったのは、桑田に妻ができたということだけだった。


 目に見えない変化としては、桑田が盛り塩をやたらと気にするようになり、それがある場所を確認するかのように、それをしている校長の行動を気にかけるようになり、志保と2人きりになると決まって、弟の健太がここにいるかどうかをやたらと聞くようになっていた。


 志保はそのたび、「いない」と答えるのだった。


 そしてその怪我から半年もした頃、またもや桑田はよくない出来事と遭遇したのだった。


 それは出張で東京に行った帰り道のことだ。


 日帰り出張で、朝の早かった桑田は研修の疲れも相まって、新幹線に乗ってすぐに居眠りを始めたのだ。


 2人席の窓側に座ったが、隣にはまだ人はいなかった。


 眠りながらも意識はぼんやりとあって、横浜を過ぎた頃に人が座ったのがわかったが、次に気付いたのは静岡を出てしばらくした頃だった。


 最初はその違和感に気付かず、目を瞑りながら腕に抱えていたカバンを持ち直そうとして、一気に目覚めた。


「えっ?」思わず声が出た。


 その声に気付いた通路を挟んだ通路側の席の女性のいぶかしむような眼と視線が合い、揺れる顔でお辞儀をするような仕草で視線を外すと、席の周辺を見渡したが、カバンは見当たらない。


 隣に座ったらしい男の姿もない。


『あぁ、やられた』顔をしかめ、頭の中で財布に入っていたキャッシュカードやクレジットカードをすぐに止める連絡をしなくては、と、入っていたカードを頭に浮かべ、どこに連絡をしなくてはならないか頭を巡らしていた。


 現金のことはそこまで気にはならなかった。


 帰る途中で、日帰りで研修のため出掛けたこともあり、大して現金は入れてなかったからだ。


 桑田はすぐに車掌を探し、事のあらましを話すと、すぐに鉄道警察に連絡を入れ次の掛川で一度下りて被害届を出すように言われた。


 桑田はこの一件も、自分を護ってくれていた弟が自分の元を離れたせいだと思い、もしかしたらこの後もこんなことが続くのかもしれないと不安になり、事ある毎に志保に弟はまだ見えないか尋ねるようになり、また見守ってもらうにはどうしたらいいのか、見える志保にどうすればいいかと問うようになり、それと同時に学校にいるもののせいで、自分によくないことが起こるのかもしれないと考え、校長の行動に目を光らせ、学校のどこに盛り塩をしているのかを探り、毎日必ずそこにあるのか確かめるほどになっていたのだった。


 この頃には、志保は桑田をここまで追い込んだのは自分の責任だと思うようになり、一時の感情で、その存在を話してしまったことを後悔し始めており、そんな桑田を突っぱねることが、より難しくなっていた。


 弟の写真を部屋に飾り、毎朝線香を立て拝み、学校では盛り塩を毎日確認するなど、そんなことをしていたにもかかわらず、その後も買い物中に言いがかりをつけられたり、やっと治ったところがまた怪我したりと、普通で考えればありがちな大したことでもないことも、全てそこに繋げて考えるようになっていた。


 その都度、志保に事のあらましを話し、子供のように志保の胸に顔をうずめ自分の心を落ち着かせるように、しばらく志保を抱きしめていることが多くなっていた。


 それを妻に求めないのか、志保は一度そう尋ねたが、桑田はそんな姿を妻に見せることはないと突っぱねた。


 それでもその日はやってきた。


 志保と桑田との本当の別れは、桑田の妻が妊娠したことがきっかけとなった。


 その頃には既に桑田への想いはしぼんだ風船のようにあるべき形をなくし、自分を求めながら妻と家族を持とうとした桑田に男の醜さが見え、触れられることにおぞましささえ感じるようになり、責任感だけで受け入れていた関係ももうダメだと思い、それはタイミングよく職場の異動とも重なり、別れるべき相手との間には、潮時というものが本当にあるものなんだなと、陳腐な恋愛ドラマのセリフを思い出し、笑いながら涙を落とさないよう、空を見上げた。

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