第33話 告げる
電話を終えて職員室に戻ると、主任が待っていてくれた。
「杉田先生、お疲れ様でした。どんな具合いですか?」
岡元美亜の母親へ電話を入れると、上の子を塾に送ったあとの19時過ぎならば、訪問は今日でも構わないということだったので、今夜訪問する旨を主任に伝えると、
「じゃあ私は先に帰らせてもらうけど、結論は聞かせて欲しいわ。電話してくれる?」
そう言うと、そそくさと職員室を出て行った。
志保はまだ残っていた美亜の去年の担任、高橋に美亜の家の場所を訪ねた。手元にある美亜の資料の中に、学校から自宅までの通学路の記載があり、滝沢華の家よりも学校に近いということで、3年目でほとんどの学区の把握はしていたので、だいたいの場所には心当たりはあったが、その場で迷うことがないよう確認したのだった。
それから仕事をしながら時間がくるのを待った。
目の端に彼の姿を捉えると、まるでそんな志保と時間を合わせるように、彼も自分の机に向かっており、時折顔を上げ、その視線がこちらを窺っていることにも志保は気づいていた。
15分前になると、志保はバックを一つ持ちトイレに向かい済ませると、そのまま職員出入り口から外に出て自分の車に向かった。その際、見るともなしに職員室に向かい振り返ると、彼はこちらに目をやりながら教頭と話しているところだった。
相変わらず志保に付いてくる自由人も、そんな彼を見つめていた。その目は何か言いたげで悲しさも伴っていた。志保はそんな自由人へ、人前では決して口にしない言葉をかけてみた。
「ねえ、あんた彼のところに戻りなさいよ。なんで私についてくるの……」
自由人は何も答えない。
「あんた、ずっと彼を護っていたんでしょ?こっちにきたら護れないじゃない?いいの?」
自由人は何も答えない。
自由人は全く言葉を発しない。みんなそうだった。
と、こんなことをしている暇ではなかった。志保は車に乗り込むと、まだそこで彼に目をやっている自由人にチラッと目をやり走り出した。
「それで?岡元さんは承知してくれたんですね?」
「はい。岡元さんも上の娘さんで似たようなことを経験したそうで、美亜さんがいいといえば問題ないということでした」
岡元美亜の母親は、こちらの申し出を快諾してくれたのだった。
美亜も華とは幼稚園の頃には仲良くしていたので、同じクラスになったことを喜んでいたそうで、華の申し出を逆に喜んでいるようで、明日から美亜の家に寄ってくれるということだった。
志保は電話で主任に事のあらましを話し終えると、ふ~っと大きく息を吐き時計を見た。
8時50分。
隣町の「風太郎」は、この時間ならここから車で20分ほどで行けるだろう。
学校に戻ってきたとき、もう彼はここにいなかった。岡元家を出たのは7時半過ぎで、志保はまだ職員室にいるかもしれない彼と顔を合わせたくなくて、本屋で時間を潰してから学校に戻ってきたのだった。
今頃は「風太郎」の一番奥、カウンターの端に座る人とも壁があり距離のある席にいるのだろう。
志保が職員室に戻ってきたときに一人だけ残っていた徳山も、主任に電話をしている最中に片手をあげて帰って行き、今、ここには志保と自由人しかいない。
「どうしようかな」
志保は自由人に向かいそう呟くと、自由人の顔の前に立った。
「あんた、彼に似ているね」
「ねえ、あの人は誰?……って、聞かなくても想像はつくし、いらないのは私の方なんだろうね」
半笑いの顔で鼻で笑う自分の顔を想像し、そんな嫌な顔をする自分に落ち込み、そんな顔をさせる彼を恨めしく思っていた。そんな志保に気付いているように、自由人は悲しそうな目を志保に向け、何か言いたそうな眼をしているように見えた。
「あんた全部知ってたんでしょ。あの人、二股してたってことだよね?昨日のあの感じだと、本命はあっちみたいだね……」
なんだか悔しさが昨日よりも膨れ上がってくるのを感じ、
「ああぁぁぁぁぁぁぁぁっ」
大きくひと声出し、大きな音を立て椅子に座ると、志保は明日の授業の準備に取り掛かった。
彼は待たせておけばいい。というか、私は行かなくていい。別れ話か言い訳か、そんな話をわざわざ聞きに行くことはない。そう決め、夕方コピーしておいた算数で使うリンゴとイチゴ、バナナにミカンの絵を何枚も切り取りながら気持ちを静めるよう努めた。
ふと気配を感じ横を見ると、自由人がすぐ横にいた。
「なんでそんなに近いの?」
「ガラーッ」
「きゃっ」
誰もいないはずなのに背後のドアがいきなり開いて、腰が浮くほど驚いた。生きていない人に驚くことはもうほとんどないのに、生きてる人が急に現れて驚くなんて、おかしなものだ。
自由人は誰かいることを教えてくれようとしてたってことか。
いつの間にか横にいた自由人の行動の意味を理解し、自由人に目をやると、その目は入り口に向いていた。その視線を追うように、ドアを見ると、そこに彼がいた。
「やっぱりまだここにいたんだ」
「驚かせないでください。もう誰もいないと思っていたからビックリしました」
「そんな口の利き方しないでよ。いつもどおり……」
「ここは仕事場ですよ。ここでは私にとってあなたは先輩です」
「もう誰もいないよ。……来てくれると思って待ってたんだけど」
そう言われて時計を見ると、もう10時を過ぎたところだった。
「すみません。今日は急に用事が入って、まだ明日の準備ができていませんので」
「志保」
名前を呼ばれ、つい顔をそちらに向けてしまった。
すると彼のすぐ後ろにいる自由人が目に入った。
自由人は、今まで見たこともないほどの怖い顔をし、彼を見つめていた。
「話の展開は昨日の状況でだいたい想像がつきます。私はお払い箱ということですよね」
「違うんだ。違う。志保を一番大切に思っていた」
「思っていた?過去形ですね」
「違うんだ……彼女は、彼女とはもう終わっていたと思っていたんだ」
「終わっていた?あなたの部屋にいましたけど。エプロンなんかつけて、まるで奥さんのようでしたけど」
「ちゃんと話を聞いてくれ」
「聞く必要ありますか?」
「ある。志保を愛しているんだ」
「意味が分かりませんが」
「彼女は洋服のデザインの仕事をしていて、先生についてパリに行くといって、長くなるかもしれないって言われて、俺も若かったし、行くなって言って……でも引き止められなくて、その時、終わったんだ。25の時だ。それから6年間連絡も取り合っていなくて、それが3か月ほど前に急に帰ってきたんだ。仕事が上手く行かないらしくて、才能ないから辞めてきたって言って……」
「それで?当たり前みたいにあなたのところに戻ったの?」
「いきなり部屋に転がり込んできて……」
「追い出さなかったの?もう彼女がいるって、言わなかったの?」
「なんか、……言い出せなくて、実家はもう兄の家族がいるから戻れないって言って、最初は部屋を探すまでとか言ってたんだけれど、そうこうしている間に居ついてしまったっていうか」
「結局、あなたはその彼女を選んだって話ね?」
「どうしていいかわからないまま……でも、志保が大事だっていう気持ちもあるんだ」
「話にならないわね。そういえばつい最近、あなたが結婚するとかなんとかって話を耳にしたんだけど」
「ごめん。そんなつもりはなかったんだけど……」
「なかったんだけど?なに?」
「彼女、もともと俺の母とも面識があったし、たまたま親から電話があった時に彼女が近くにいて、それに親が気づいて、それからいつの間にか連絡取るようになってて……なんていうか……帰ってきたならそろそろっていう話になって……」
「押し切られたって感じ?」
「ごめん」
「拓ちゃん」
優し気な、甘えた声で彼女が呼んでいたように、彼を呼んだ。
その瞬間、どこに視点を置いているのかわからないように、動かし続けていた彼の目が志保を捉えた。
「拓ちゃん」
「やめてくれ」
「どうして?彼女はそう呼んでいたよ」
「だからやめてくれ。志保、すまない。志保への気持ちも本当なんだ。だから言い出せなくて」
「あなたの結婚の話を聞いたとき、もしかしたらプロポーズが近いのかなって思ったのよ。バカみたいね」
「志保、志保を愛しているんだ」
「バカじゃないの?やめてよ」
「志保」
そう言って彼が志保を抱きしめようとした瞬間、自由人が彼の真正面から受け止めるように志保との間に入り込んだ。
志保は一歩下がり、彼を見つめた。
「ねえ、あなたに言っておきたいことがあるんだけど。私ね、高校生の頃に交通事故に遭っているの。かなり強く頭を打ってね、その時、自分が自分を抜け出す感覚を味わっているの。それからだった……私、生きていない人がちゃんと見えるようになったの」
「えっ?な、何の話をしてるの?」
「あなた、兄弟か近い身内で誰か亡くなっていない?」
「えっ?どういうこと?」
「だから、誰か亡くなった人はいない?」
「弟が……小さい頃に……」
「そっか、弟だったんだ。どうりであなたに似ているはずだわ」
「なんだよ、何の話だよ」
「だから、ずっとあなたに憑いていたのよ。あなたを護っていたのね。でもね、その弟君、昨日からあなたを離れてしまったわ。気をつけたほうがいいわよ。もう護ってくれる人がいないから」
「だから何の話だよ。嘘だろ?本当にそんなものが見えるのか?」
「この学校にきたばかりの頃、ここ、出るって噂があるとかなんとか言ってたでしょ?」
「ああ、そういえばそんな話をしたな」
「あれも本当の話よ。この学校には確かにいる。でもここにいる人たちは動けない人が多いの。ジッとしているだけ。気づかなかった?この学校のあちこちに盛り塩がしてあるの。だから動けなくなっている人がいるんだと思う。もちろん例外もあって、場所によっては動けている人もいるわよ。盛り塩の場所によって違うのかもしれない」
「盛り塩……そういえば見たことあったな」
「あれ、たぶん校長先生ね。やっぱりそういう噂があって、昔からそういうしきたりでもあるんじゃない?」
「そうだったのか。っていうか、なんだか話が変な方向にいってる……」
「だから、あなたの弟君があなたを護っていたけれど、昨日から離れたの。あなたのこと怒ってるんじゃない?気をつけたほうがいいわ。忠告しておく。じゃあ、……さようなら。もう、私にとってあなたはただの先輩だから」
そう言って、志保は彼に背を向けた。
その瞬間、背中に温かいものを感じた。
「志保。愛しているんだ。本当だよ……愛してる」
抱きすくめられた瞬間、涙と共に全身の力が抜けて行くのを感じた。
そして、いつの間にか目の前にきていた自由人は、ただ悲しい目をして、志保を見つめていた。
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