第32話 私に憑く



 翌朝、学校の駐車場に着くと、志保の着く時間を見計らって着いたのか、それとも早くから来ていて車の中で待っていたのか、志保が車を出ると同時に彼も車から出てきた。


「おはようございます」


 一瞬、胸がざわっとしたけれど平静を装って挨拶をした。いつも通りだ。


「おはようございます」


 そう返してきた彼の横に並ぶことがないように、急いでるふうを装って速足で職員通用口に向かう志保のすぐ後ろに追うように着いてきた彼が、


「昨日はごめん。今夜『風太郎』で。ずっと待ってるから」


 職場から少し離れた隣町にあるその店は、L字型のカウンターと4つの個室のあるお店で、誰にも邪魔されず話ができるところで、隠れるように付き合っていた志保たちは、よく利用していた。


 志保は返事をせず、靴を履き替え職員室に向かった。


 いつも彼にピッタリとくっついていた自由人は、今日、彼の元にはいない。昨夜から、それは少し離れて志保にくっついていた。


 今朝、彼が現れたとき、自由人はどうするんだろう?やはり彼の元に戻っていくのかもしれないと思っていたが、そうはしなかった。職場ではもちろんのこと、誰か人がいるときに自由人の存在に気付いていることを悟られないよう、いつも通りに意識しないようにしていた。


 ずっとそうしてきたので、それは息をするのとそう変わらず、志保には自然にできることだった。


『トゥルルル』と職員室の1年2年担任の間にある電話が鳴った。どちらかの学年宛ての事務室からの転送だ。


「はい、2年杉田です」


「杉田先生、ちょうどよかった。お電話が入っています。滝沢さんです」


「おはようございます。お電話代わりました。杉田です。」


「おはようございます。滝沢ですけど、今日、またお休みさせてもらいます。それで少し放課後お話をさせていただきたいのですが、お時間ありますでしょうか?」


「はい、大丈夫です。何時頃こられますか?私は今日は3時半過ぎならばいつでも大丈夫です」


 滝沢 華の母親だった。


 華は2年になって、1年の時に仲の良かった丹波理沙とクラスが離れてしまい、学校に行くことを渋るようになり、とうとう朝になると腹痛を起こすというところにまできてしまっていた。


 この学校に新採で赴任して3年目、志保は2度目の2年生を受け持っていた。


 1年から2年へのクラス替えで、やっと学校に慣れたこの時期、前年度の1年担任たちは、クラス編成でどうしてわざわざ仲のいい子を離すようなことをするのだろうかと疑問に思うが、そんなことを言っても始まらない、今は華の精神面のケアを考えなくてはならない。


 それにしても、何と間の悪いときに。……いや、いいタイミングかもしれない。


 今夜、彼の待つ『風太郎』に行かない理由ができた。


 今年も6年を受け持つ彼の席は少し離れていて、けれども今のやり取りをこちらを気にしている彼を横目に捉えていた志保には、今夜行けないかもしれないということが伝わったと理解した。


 華が欠席したことを覗けば、特に何も問題なくその日は過ぎ、16時を回った頃、華の母親がやってきた。


 事務室前の玄関で出迎えた私は、玄関横のコンテナに組み合わせて規則的に並べてあるスリッパを一つ出して、並べて滝沢の足元に差し出すと、「どうぞこちらへ」と、押さえていた事務室横の談話室へと招き入れた。


 部屋へ入るなり「どうぞ」と差し出した椅子に座るのも惜しむように華の最近の様子を話し始め、こちらが口を挟む暇もないほどに滝沢の独壇場で、話は理沙とクラスを離したことへの恨み事へと移り、去年は楽しそうに学校へ通っており、だから行けなくなったのは学校のせいだ腹痛を起こしてしまうのも学校のせいだ、挙句に去年のクラス担任、森岡に対する愚痴文句とを、訥々とつとつと訴え続け、最後は弱々しくこんな頼みごとをしてきた。


 それは朝の登校時、同じクラスの岡本美亜に迎えに来て欲しいということだった。


 美亜は去年こそクラスは違ったものの、どうやら幼稚園の頃に仲良くしていたことがあったようで、家の方向も同じで、ただ美亜にとっては学校とは少しだが反対に行くような形になるので、美亜がそれを了承するかどうかが問題で、その話を担任として美亜とその母親にして頼んで欲しいということだった。


 正直なところ、気は重い。だったら私が迎えに行きますとなるほうが気は楽なのだが、


「わかりました。岡元さんに連絡を取ってみます。ですがあちらの都合もおありでしょうから、明日それが叶うかはわかりませんので、結論はまた私の方から滝沢さんにご連絡させてもらいます」


「よろしくお願いします」


 17時過ぎに滝沢を見送ると職員室に戻った。


 職員室にはまだほとんどの教員が残っており、彼ももちろんそこにいた。


 志保は学年主任に滝沢の話とその提案を話し、対応の相談をしたところ、岡元さんに連絡を入れ直接出向いて事のあらましを話して頼んでみてはということになり、電話をかけるため職員室を出て事務室へと向かった。職員室から電話をかけてもよかったのだが、まだ多くの教員が残っていたため、それぞれの仕事の邪魔をしないよう、事務室からかけることにしたのだ。


 そしてすぐ後ろから人がくる気配がし、それが彼だということにも志保は気づいていた。


 志保が席から立ち上がると、それを見ていた彼も席から立ち上がるのが横目で見えていたのだ。志保は話しかけられないように急ぎ足で事務室へと向かい、飛び込むようにそこに入った。


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