第16話 壊す人3
その日は、他の先生も含め、みな大也の様子には注意を払っていたが、特に気になるところはなく、何事もないまま終わりの会を終え、教室の戸口に立つ沙絵の手にハイタッチして子供たちが教室を出て行った。
全員が出たことを確認して、昇降口に向かった。
大也はいつも通り、優太と連れ立って昇降口を出て行くところで、その前に美咲の姿が見えた。
あれ?と思ったのは、美咲は一人でいたからだ。美咲と一緒だと思い込んでいた結美は、その美咲の少し前に、同じクラスの羽澄と並んで楽しそうに話している。
暑くなり始めて薄着になった2人の背中のランドセルが、その笑顔に揺れるのと対照的に、美咲のランドセルが重たく見えてしまうのは、美咲の落ち込んだ肩と、俯き加減の歩き方が比例していたからだろうか。朝に見た、結美と話しているときの美咲の楽しそうな顔を思い出し、上手く行かないもんだなと、苦笑した。
1年生の他のクラスの子たちもみんな出て行った下駄箱は、人が出す熱を失い、その無機質な冷たさだけが際立っていた。
周りに誰もいないことを確認すると、沙絵は爪先立ちにして身体をこれ以上ないほど伸ばして、朝、杉田が作り直していた盛り塩を見た。
ある。
そりゃそうか、人の目がたくさんがたくさんある時間には、これを壊すのは簡単ではないだろう。美咲はまた学校に戻ってくるのだろうか?そして盛り塩を壊して回るのだろうか?だとしたら、それは何故なのか?
沙絵は急いでクラスに戻ると、早く体が自由になれるように、やり残した仕事と明日の授業の準備を、かなりの勢いで片付けた。
1年生の担当になってよかったことの一つに、1年生は4時間目の後の給食後に帰れる日が多いことだった。子供たちが帰ったあと、テストの○付けや日誌をつけること、明日の授業やこれからの授業の教材の準備をやる時間を確保しやすいのだ。まあ、その分、校務分掌は大変なものが割り当てられたりするのだが。
誰もいない教室で、窓を全開にして通る風の心地よさに気づいたとき、ふと時計に目をやるとすでに16時を回っていた。
「だいぶ仕事が進んだわ。いつもこうだといいんだけど」
いつもは職員室に戻って仕事をしていることが多いのだけれど、空き時間で自分の仕事を進めている先生方の動きを目の端に捉えていたりして、気が散るとまでは言わないが、思うように仕事が進まないことがある。教頭や教務に何か頼まれごとでもしたら、それこそ自分の仕事が進まなくなってしまう。そんなこともあり、授業が終わってもなかなか職員室に戻ってっこない先生も少なくない。
「もう6年生も下校した時間だ。そろそろ行ってみるとするか」
誰もいないとわかっているので、自分で何かを確認するように、つい独り言を言ってしまう。
沙絵は昇降口に行くと、一番端の下駄箱に行き、自分の姿が入ってくる人から見えない位置に隠れた。
すると、ほどなくして入り口からこちらを覗き込むようにして目をキョロキョロさせて、誰もいないことを確認して、美咲は足音を立てずに盛り塩に一番近い下駄箱に上がった。どうやら靴は履いたままのようだ。
その盛り塩を壊すとすれば、ちょうど沙絵に背を向けるような形になるので、沙絵は爪先立ちをして顔をしっかり下駄箱の上に出すようにして見た。
すると、家から持ってきていたのか、下駄箱の上に伸びた手の先にはシャベルが握られていて、それで盛り塩をぺシャリとつぶしたのが見えた。
ああ、やっぱり美咲だったか。
そう思い、美咲のところへ行こうとしたところ、何かブツブツと言っていることに気付いた。沙絵はなんとかその言葉を聞き取れないかと髪を耳にかけ、下駄箱に耳を押し込むようにしてその声に集中した。当然だが、顔が邪魔して聞こえにくい。
「て…さん、てん……さん、おあら…く……さい。ゆいちゃん…はす…やすませ……」
えっ?ゆいちゃん?はすちゃん?やすませ?休ませてくださいってこと?美咲は盛り塩を壊しながら、何かお願い事をしていた?
結衣ちゃん。そういえば今日はお休みだった。美咲がそう願ったから?昨日もそう願ってた?いやいやいや、沙絵は首を横に振りながら、さすがにそれはないな、たまたま結衣の休みが重なっただけだ。けれど、美咲はそうは思っていないかもしれない。盛り塩を壊して天使とやらに祈ったとき、たまたま結衣が本当に学校に来なかった。だからまたお願いにきた。そういうことだろうか。
しかしどうしてこんな行動に出たのだろう?
天使が願いをかなえてくれる。それは絵本か何かに書いてあったのかもしれない。ありがちな話だ。だが、盛り塩を壊してというのは、どういうことだろう?
そうだ、昨日美咲は「天使との約束」とか言っていた。美咲の言う「天使」が盛り塩を壊すようにと美咲に頼んで、その見返りに美咲の願いを叶える。
そう考えるとこれまでの美咲の行動と辻褄が合うような気がする。
「ふわふわさん」
もしかしたら、大也の見るふわふわさんとやらと、美咲に見えている天使は同じものなんじゃないか。2人に見えているもの。それは形があるものなんだろうか?それとも、必要に応じて自分で創り上げたものなのか。
ペタッ……ペタ……ペ…タ……
いかにも、そ~っと静かに歩いてますというような微かな音がして、そっと廊下を覗くと、美咲が教室とは反対方向へ歩いて行くのが見えた。
沙絵はそのまま、美咲を目で追っていると、美咲は男子トイレの前で一度止まると、パッと沙絵のいる下駄箱の方へ顔を向けた。マズイ……と、沙絵は顔を引っ込めた。タッチの差でたぶん見つからなかっただろうと思ったが自信はない。1,2,3と、数えるように深呼吸をして、またそっと顔を出してみると、そこに美咲の姿はなかった。
「えっ」と思い身体を廊下へ出した瞬間、男子トイレから出てくる美咲の姿に気づき、また沙絵は身体を下駄箱へと引っ込めた。美咲はきっと、男子トイレの盛り塩を壊してきたのだろう。とすると、次は女子トイレに行くのだろうと、ジッと後ろ姿が遠くになる美咲を見ていると、やはり女子トイレの前で止まったので、またこちらを向くかもしれないと思い、顔を引っ込めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます