春のいやさか

うめ屋

*


 きれいに咲いたもんだな。

 と、敏道としみちはいたく感心した。五弁の花びらはほのぼのと、夜明けのあわいしののめ雲をひとひら奪い取ってきたように浮かんでいる。それが敏道の眼前でちらちら踊る。うすべに、さんご、あるいは金朱。

 ひらめく首すじに釘づけとなっていると、まだ青年になりきらない二十歳はたちの面差しがふりむいた。


「なあに、トシさん」

「なんでもねえよ。……ほら、餓鬼はこっち食ってな」


 金色のたまご焼きを、幼なじみの口にぐいっと放り込んでやる。はるはすなおに齧りつき、幸福そうに目を細めた。

 そうしながら、ふわふわとむき出しのうなじを掻く。するとその首に浮かぶ桜はまたひとひら色をたがえて、ほろ酔いの提灯色に染まるのだった。


 *

 

 この幼なじみには、生まれつき桜のかたちの痣があった。

 うなじの真ん中、くぼみの部分にぽんと一輪。まるで花と盃だ。肌をそのまま真白い猪口に、浮かべた桜を肴と飲み乾す。これは将来酒豪になるわねえと、かの産みの母は生まれたてのわが子を見て笑ったらしい。

 だから、というわけでもなかろうが、この赤んぼうはめでたく春弥と名づけられた。春のいやさかに生まれた赤子。祝福を受けた季節のこども。春弥は桜色のおくるみに包まれて、わが街にやってきた。ほうら、この子、春弥っていうの。敏道くん、この子のお兄ちゃんになってあげてね。

 そう、彼の母から紹介された日のことを、敏道はよく覚えている。

 敏道はそのとき五歳、まだ人間になりきらない、ちいさな怪獣だった時分である。互いの家が隣どうしで、母親どうしの気もあった。それで春弥の母が赤んぼうを連れ、敏道の家へ遊びにきたのだ。

 母の腕で眠る春弥はふにゃふにゃと頼りなく、まるっこく、仔猫みたいにぐにゃあと手足を引き伸ばしてやりたくなった。敏道はきゅっと赤んぼうのぺちゃ鼻をつまみ、ぶさいく! と囃し立てた。

 とたん、敏道の母が敏道にゲンコを食わせる。が肝心の赤んぼうは泣きもせず、ぺくしょい、と綿毛みたいなくしゃみをした。

 それきり、ふたたびすやすやと眠り込む。春弥の母がころころ笑い声をあげ、だいじょうぶよ、とりなしてくれた。ほらこの子、こんな痣があるの。春のうららのさくら花。だからきっと、春風みたいにおおらかな子になるわ。

 そうして彼の母が抱きあげた赤んぼうの首すじには、桜のかたちの痣があった。そこだけ春らんまんのふくふくしさに、敏道はまぶしく目をしばたたかせた。


 *


 以来、敏道は春弥の兄でありつづけた。

 春弥が迷子になった日も、保育園で痣のことをからかわれたときも、ランドセルが重たすぎてひっくり返った一年生も。はじめて中学に行く朝も高校の満員電車も、あるいは大学の合格発表のときだって。全部ぜんぶ、敏道が手を引いて守ってきた。隣でいっしょに歩いてやった。

 だからきょうも、花見に誘い出したのだった。

 三月のすえ、日曜日。敏道は仕事が休みで、春弥も大学の春休みだ。スケジュールはわかっていたので、敏道は朝から春弥の家に突撃した。寝こける幼なじみの布団をひっぺがし、ほら行くぞと無理やりに手を引いた。そうして途中のコンビニで弁当を見つくろい、近くの河川敷にやってきたのだ。


「人、いっぱいだねえ。トシさん」


 春弥は頬を赤らめてにこにこ笑い、あまい苺サワーの酒をすする。

 周りは花見客でいっぱいだ。なみいるブルーシートやレジャーシート、家族連れ、恋人、友人、会社の飲み会。あちこちでやんやの騒ぎと酒の香がはじけ、濃い弁当のにおいと混ざる。敏道は春弥の手から缶を取りあげ、清涼飲料のボトルを渡した。


「おまえ、そろそろ酒やめとけ。顔真っ赤だぞ」

「うん」

「はじめて飲んだんだからな、倒れられたら洒落にならん。これからは大学の飲み会でも、ちゃんと限界考えて飲むんだぞ。ちょっとでも酔ったと思ったらそこで断れ」

「うん」

「つかいっそ飲むな。おまえ危なっかしいからな、先輩とかから押しつけられてもかわせねえだろ」


 ――など、ほんとうは嘘である。

 春弥は案外、ずぶとい。そしてしなやかだ。どんなことでも、まるで春風のようにやり過ごしてしまう。迷子になったときはのんきに道端で遊んでいたし、いじめっ子ともいつのまにか打ち解けていた。受験も部活も人間関係も、そんなふうにするりとくぐり抜けてしまうのが、春弥なのだ。

 敏道の助けなど、はじめから、実はひとっかけらもいらない。


「……あーあ、」


 ため息交じりに頭上を仰いだ。桜ははらはらと散り急ぎ、わけもなく敏道の胸に迫る。手にしたビール缶がべこりとへこんだ。春弥はきょとんとして、弁当をつまんでいた箸をとめる。


「どうしたの、トシさん? さっきからへんな感じ」

「いっつも変なのはおまえだろ」


 頭をこづき、そのままぐしゃぐしゃとかき回してやる。春弥は幼子みたいに首をすくめて笑った。敏道はその顔をいとしく、またさみしいものとして眺める。

 春弥の世界は、これからもっと広がってゆく。おとなになり、誰かと出会い、伴侶やもしかしたらこどももできて、家を持つ。

 そのときその輪の中に敏道はいない。なぜなら敏道は兄貴だからだ。敏道はじぶんの気持ちと引き換えに、兄貴としてここにいると決めた。兄ならば、けっしてこの距離が壊れてしまうことはないから。


「――、」


 春弥の首に、桜がひとひら咲いている。酔った肌はうっすらべに色に染まり、痣もひときわ艶めいていた。きれいに咲いたもんだな、と思う。しかしいずれこの花を摘みとるのは、敏道ではない。敏道ではいけないのだ。

 敏道はてのひらでその桜を覆い隠し、兄貴らしく春弥と肩を組んだ。


「おめでとう、ニ十歳。兄ちゃんきょうが嬉しいよ」


 春らんまん、三月のすえ。

 きょうは春弥が生まれた日。春のいやさか、その祝福を受けた幼なじみの誕生日だ。


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春のいやさか うめ屋 @takeharu811

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