16-1

~16-1~


 新居での暮らしに不満は少ない。住めば都と言うけれど、実際不便らしい不便は思い当たらない。在りし日には其れなりの威容を放って居たのであろう聖堂は町外れの静寂も合間って好ましい雰囲気が漂っている。居住に足る設備も最低限揃っており、今日も我が家の料理人は簡易キッチンで腕を振るっているようだった。


 恐らく、以前の暮らしとの差異を自分に感じさせまいとしているのだろうと思った。流石に書籍の類を持ち出す訳には行かないだろうけれど、自分の手元にはその蔵書を遥かに越える量の電子書籍を収めた端末が置かれている。


 「いつか気兼ねなく外出出来るようになれば贈ろうと思っていた物だが、まぁその時はまた何か用意するさ」

 そう言って差し出したあの人は申し訳なさそうに笑った。転居せざるを得なくなった事を必要以上に気負っては居ないようで安心した。既に現状は双方の同意によって成り立っているのであって、一蓮托生の仲に過度の遠慮は侮辱にすらなり得ると漸くご理解頂けたようだ。


 状況の打開に向けて行動もしているらしい。夜毎いそいそと出掛けたかと思えば明け方に忍び足で帰ってくる。まるで不貞の夫を持った心境だ。帰宅するなり先ず自分の顔を覗きに寝室を訪れるあの人は時折酷く血生臭く在ったけれど、そんな事は不満に挙げる程ではない。


 強いて物申すのであれば、帰宅に際し頬に口付けの一つも落としてはいかないのかと言う点だけが密かな不満だった。面と向かってねだる事も吝かではないのだけれど、叶うなら自主的にそんな衝動に駆られて欲しいと思うのは贅沢だろうか。

 

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