2-5

~2-5~


 不意にあの人が体を離した、自分の背中に回されていた掌が頬へと移るのを感じた。止め処無く流れ落ちる泪の為に視界は不鮮明で、眼前に有る筈のあの人の顔すら視界に捉える事が出来ない。その導因をすら自分の手で取り払う事が出来ないと言う事実が悲哀に拍車を掛ける。頬に添えられたあの人の掌など意に介さず、寧ろ邪魔だと言わんばかりに自分の眦を拭わんと上腕を振るうが、やはり届かない。


 その時、あの人の両の親指が自分の眦をなぞった。茫漠だった視界が啓け、あの人と視線が交差する。真剣な眼差し、誠意や慈愛、寛容の入り混じった、自分の全てを肯定する様な、そんな眼をして居た。これらの表現もきっと適切ではない。その時自分が抱いた印象を敢えて稚拙な表現で在りの儘言葉にするならば、改めて惚れ直してしまう程に、とても素敵な眼だった。具体的に言えば、思わず泣き叫ぶ事を忘れその眼に見入ってしまう程度には素敵だった。


 「お前の身体が、俺の為に誂えられた物であると言うのなら」

 眼前の相手が恍惚とその眼差しに魅入られて居るとも知らずあの人が口を開く。

 「俺は、そんなお前が望む一切を叶える為に在るよ」

 世にプロポーズの数多在れど、この一言を超える物は現世に在るまいと、今でも本気で思って居る。


 その言葉を耳にした刹那、再び冷たい物が頬を伝うのを感じた。それが先程迄とは性質の異なる物だと言う事は誰の目にも明らかなのだろうが、この上あの人を心配させるのは自分の望む所では無かった。言葉を以て取り繕おうにも、此方は此方で先程とは違う意味で言葉に成らない。それでも自分の想いを形にせんと、可能な限り口角を上げ無理矢理にでも笑顔を作って応え様と試みた。しかしつい先程まで泣き叫ぶ事に費やしていた表情筋は思う通りに動かすことが出来ず、鏡を見ずとも自分が酷く不細工な貌を晒している事が自覚出来た。


 「…なんだその顔は」

 余程ちぐはぐな貌をしていたのだろう、あの人は堪えきれず吹き出してしまった。ただ、自分の意図する処は正しく伝わったらしい。先程までの張りつめた空気は既に無くなっていた。


 「酷い顔だ、洗った方が良いだろう、体も冷えてしまっただろうしな」

 指摘されて初めて自分がガウンを脱ぎ捨てていた事に気付いた。冬の寒気が急激に肌を刺してくる。あの人は車椅子の座面に落ちたガウンを取り直すと再び私の身体を包み其の儘抱き上げた。


 「今日はこのままシャワーを浴びて寝てしまおう」

 そう口にするとあの人はバスルームへと足を向けた。その言葉に込められた意味を量り兼ねた自分は期待と不安の入り混じった視線であの人を見上げた。



 「…勿論、寝台は一緒でな」

 視線に気付いたあの人は悪戯心を多分に含んだ表情でそう付け加えた。


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