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 「仕事が終わった、今から帰る」とあの人から電話を受けたのが今からちょうど20分前のこと。組合の事務所から掛けていた様だからそこから市街を巡回する路面電車の駅まで歩いて3分、電車はおよそ15分間隔で駅にやってくる。屋敷の最寄り駅に着くのに20分、屋敷までは歩いて5分を要するから、合計の所要時間は電車の来るタイミング次第で28分~43分だ。


 何度計算しても変わる事の無いこの簡単な足し算を、それでも何処かに間違いが有って今この瞬間にもあの人が帰って来ないだろうかと思い繰り返し脳内で反復してしまう。そんな益体もない思考に雁字搦めになって趣味の読書も全く手につかなくなってしまった。良かれと思って帰宅前に連絡を寄越してくるのだろうけど、これでは却って精神衛生に良くない気がしてしまう。


 あの人と暮らし始めてからそろそろ1年が経とうとしていた。正確には今日で11ヶ月と26日目、日々は単調でありながらも色々な出来事が目紛るしく起こった様でもあって、この日数が体感より長いのか、それとも短いのかも正直曖昧だ。あの人と一緒に居る時間はあっという間で、傍に居られない時間は途方もなく長い。そんな風に自分達の関係が変化してしまったことも原因の一つと言えるだろう。其れを悪い事だとは微塵も思っていないけれど。


 読み掛けの本に栞を挿み書斎を後にする、最初は前進させる事すら難儀していたこの車椅子も今では十全に自分の足の代わりを務めてくれている。書斎に並ぶ多数の書物、最新式の電動車椅子、広い屋敷に温かな寝床。自分の身の周りに在る物は全てがあの人からの頂き物で、自分が返せた物なんて一つとして此処には無い。最初はただ無感動に受け止め、それが日に日に申し訳ない思いが募って、でも今は当たり前に享受している。自分にも返せる気持ちが有ると知ったから。でもそれですら、気付く事が出来たのはあの人の求めが有ったから過ぎないのは、我ながら締まらない話だと自省している。


 最初に求められたのは出会ってから半年を少し過ぎた頃、降誕祭が間近に迫った冬の日の事。この屋敷に引き取られてからと言うもの日がなするべき事も見つからず只々読書に没頭するばかりだった自分の頬にあの人が口付を落としたのが始まりだった。恐らくひどく酔っていたのだろう、最初はパンブリアコーネでも差し出されたのかと思う程芳しく葡萄酒を召し上がっていたあの人は焦点の定まらぬ目で自分に言った。


 「無理強いを、するつもりは無いんだが」

 是も非も無かった、自分とて既にその時にはあの人に魅かれていたのだから。

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