第33話 嵐の兆し

 部屋に戻ろうとしたところで、舞彩マイを見かける。彼女は廊下をモップがけしていた。


「こんな夜にまだ掃除か? ここって一度やらなかったっけ?」


 たしか食事前にもやっていた気がする。


「すみません、ご主人さま。邪魔でしょうか?」

「いや、邪魔じゃないけど。舞彩もそろそろ休んだ方がいいんじゃないか?」

「もう少しだけ、もう少しだけやらせてください」


 いつもの舞彩とは違う雰囲気を俺は感じ取った。彼女はたしかに真面目だが、無駄な事はあまりしない性格なはず。


「なぁ、舞彩の魔法って筋肉痛にも効くんだっけ?」

「筋肉痛ですか? あれは傷ついた筋線維を修復しようとするときに起こる痛みですからね。すでに修復しようとしているものに治癒魔法はあまり意味がないとは思います……ですが、痛みを和らげることはできますよ」

「じゃあ、頼む。今日は普段使わない筋肉をけっこう使ったからな、背中が痛くて」


 嘘ではない。ただ、我慢できないほどではなかった。


「それでしたら、こちらを片付けたらお部屋に行きますので、少々お待ち下さい」


 舞彩はモップとバケツを持つと、そのまま奥の方へと歩いて行く。


 筋肉痛ってのはただの口実で、何か思い詰めたような舞彩の原因を探る為でもあった。


 さて、部屋で舞彩を待つか。


 その時、背筋にゾクリとする視線を感じる。


 それは愛瑠メルの部屋の扉からだった。少しだけ開いた隙間から愛瑠メルの片眼が見える。


「いいなぁ……舞彩姉さま」


 彼女はそんなことを呟いて扉を閉じた。うん、ごめんな愛瑠メル。次は相手してやるからさ、と心の中で誓う。


 部屋に行くとベッドの上で舞彩を待った。これからエロいことをしようというわけではないので、それほど緊張することもない。むしろ、そういう気持ちを排除しないと彼女の心の扉を開けないだろう。


 舞彩とは一度、交接えっちを行っている。夢のような出来事で、あれが本当にあったのかもあやしいほど俺の記憶は美化されていた。


 脱童貞ってことで、頭が真っ白になったってのもあるかもしれない。だが、あれで俺が救われた部分は多い。俺を受け入れてくれた彼女には感謝しきれないほどの恩を感じている。いや、恩ではないな。俺は彼女にもっと好かれたい。


 事務的な好意じゃなくて、本気で愛されるような人間に俺はなりたかった。


 だからこそ、俺は彼女の悩みを知りたい。それを解決してやりたいって気持ちが出てしまう。他の奴ならもう少しスマートにできるだろうけど……まあ器用にできないのだから仕方がない。


 トントンと扉がノックされる。


「舞彩か? 入っていいぞ」


 そう言われて彼女が入ってくる。見た目はいつもと変わらないように見えるが、若干元気のない雰囲気も漂う。疲れているだけって可能性もあるが。


「では、うつ伏せに寝転がって下さい」


 いきなりのその台詞にむせそうになる。まるでマッサージ師みたいではないか。


「え? 治癒魔法だよね?」

「いえ、筋肉痛でしょうから、マッサージの方が効果的かと思いまして」


 それも悪くはないかと、舞彩の指示通り寝返りを打つようにごろんとうつぶせになる。すると、舞彩が俺の身体を跨ぐように座ってきた。


 全体重を載せないように少し腰を浮かせながら座るところは彼女らしい気遣いだろう。これが愛瑠メルだったら、全体重を載せるどころか、飛び乗ってフライングボディアタックばりの衝撃を俺の腰に加えるはずだ。


 舞彩の柔らかな手が、俺の背中をマッサージしていく。


 心地良くて眠りに誘われる。舞彩自信が放つバニラの香りがアロマのような効果を持ち、本当に眠りに落ちそうになった。


 いかんいかん。当初の目的を忘れてはならない。


「なぁ、舞彩」

「なんでしょう。ご主人さま」

「今日はありがとうな」


 まずは感謝の気持ちから。というか、俺は気の利いた台詞が言えないから、こういう基本的なことしか喋れない。


「いえ、それがわたくしに架せられた使命ですから当然です」

「そんなに気張るなって、もうちょっと肩の力を抜いてもいいんだぞ」

「ですが、わたくしはご主人さまから魔力をいただいてしまっています。ご主人さまを助け、守ることこそがわたくしたちの存在意義なんです」

「だから、そこまで気張らなくていいって」」

「ですが、ご主人さまの命を守るためには気を抜くなどできません。わたくしたちに失敗は許されないんです」


 やはり水龍と最初に戦った時のことを気にしていたか。


 あの時舞彩は、魔導防壁の設定をミスった。でもそれは、恵留エルとの連携がうまくいってなかったからで、あの艦に不慣れだったのだから仕方がないはずだ。


 だけど舞彩自身はそれが許せないようだ。


「失敗してもいいんだよ。俺は失敗の連続だった。おまえも俺の記憶を見てるんだから知ってるだろ? 絵だって、あそこまで描けるようになるまでにかなりの失敗を繰り返している。魔導防壁の件にしたって、まだ操作に不慣れだったんだから仕方ないって」

「ですが……」

「誰かの失敗は、みんなでカバーしていけばいい。俺が失敗したら舞彩が助けてくれればいい。たぶん、愛瑠メルが失敗しても恵留エルは文句言いながら、それを助けるぞ」

「けど……わたくしは長女だからしっかりしないといけないんです」


 そっちが本音かな。あの失敗は姉としての威厳が保てないって、彼女は考えているのかもしれない。


 使い魔として一番最初に召喚され、妹が二人も増えたんだ。まあ、無理もないか。舞彩はそういう性格なんだろう。


 こういう時はどうすればいいんだ? 女心なんて知らないぞ、俺。


 いっそのこと「失敗を気にするな」という命令を出すか? いやいや、そんなんで根本的に解決するはずがない。表面上は何事もないって装うだけだ。


 せっかく舞彩の心の扉を開けたというのに、そこから救い出す手を俺は持っていない。


 情けなくなるくらい俺は無力だった。


 結局、その日は舞彩の心を癒してやることすらできなかったのだ。



**



 朝、出航した時は快晴の空だった。風もなく穏やかな波の海を進んでいく。


 だが、×印に近づくにつれ風を強まり、海は荒れてきた。それは尋常でないほど。


「低気圧か?」


 情報解析担当の愛瑠メルにそう話を振るが、彼女は首を傾げる。


「たしかに低気圧なんですけど……変なんですよね」

「変?」

「時間を遡ってデータを解析したんですけど、この低気圧は少なくとも半年以上、同じ場所に留まっています」


 そんなバカなと俺は思ってしまう。だが、ここは異世界だから、そんな自然現象があったとしても納得するしかない。そもそも俺の元いた世界の物理法則がどれだけ通用するのかだ。


愛瑠メルの考えを聞きたい」

「そうですね。考えられるのは二つ。この世界はこういう世界だということ。移動しない低気圧も存在すると」

「もう一つは?」

「これは人工的に作られたものということ。いわゆる気象兵器ですね」

「それはそれで胡散臭いが」


 あの手の話は陰謀論とセットだからなぁ、


「理論上はハルナオさまの元いた世界でも可能です。ただ、それを稼働させるためには莫大なエネルギーが必要になります。まあ、ゆえに事実上不可能なんですけどね」

「そりゃそうだな。スモッグだらけの空を綺麗な青空にするとか、台風をほんの少しだけ弱める程度なら俺の世界でもできてたけど、台風並の嵐を発生させる話は聞いた事が無い」

「ですから、科学があまり発達していないこの世界で、そんな莫大なエネルギーを得ることは不可能でしょう。なので、メルは最初の説を推しますね」


 その愛瑠メルの見解に、舞彩が何かを思いついたようにこう告げる。


「ねぇ、愛瑠メル。その莫大なエネルギーが、この戦艦のような技術を使って作れるとしたら?」


 その言葉に俺はハッとなる。魔力と言われるものを集めてそれを変換して動くこの戦艦。そして物理法則さえねじ曲げる魔法のペン。


愛瑠メル。低気圧の中心だが、もしかしてこれから向かう×印の場所と重なるか?」

「はい。見事重なりますね」


 ということは、やはり魔法のペンが関連しているということか?

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