第10話 キスと思考実験

 それは妄想の中で何度も夢見た理想の女性とのシチュエーション。


 リアルな女性に不信感を抱きながら、虚構の女性に恋をするという歪んだ愛情。


 舞彩はその虚構の女性なのだから、なんの問題もないはず。


舞彩マイ……」


 ぎごちないかもしれないけど、緊張で震えそうな身体を抑えながら彼女に顔を近づける。


 が、その唇が触れる直前で、俺はあることが頭に浮かんで顔を背けてしまった。積み上げられてきた『違和感』が一気に俺の心を押し潰す。


「ご、ご主人さま……どうされたのですか?」


 彼女は俺に描かれた……作られた存在だ。そもそも存在自体が虚。だから、俺へと向けられる笑顔も愛情もすべて偽りなのかもしれない。


 舞彩といるときに感じていたこの感覚は、それがすべてなのだろう。


「舞彩は俺がどんなことをしようが、俺を受け入れてくれるんだよな?」

「あたりまえじゃないですか、ご主人さまなのですから」


 その返答で俺は確信してしまう。彼女は、俺に都合のよい言葉を喋るだけのただの人形だということを。


「舞彩、俺の記憶を共有しているのなら、【哲学的ゾンビ】という言葉を知っているだろう」

「はい……たしか、普通の人間と全く同じように振る舞うが、内面的な現象的意識やクオリアを全く持っていない人間を定義したもの。解りやすく言えば【心】のない人間……でしたっけ?」


 哲学者のデイヴィッド・チャーマーズによって提起された思考実験である。


「もし、心のある者と、心はないが見た目も行動もまったく心のある人間と同じ行動をする者がいたとして、それを他の人間は見分けることができると思うか?」

「……いえ、無理でしょうね」


 その通りだ。両者に表面上に決定的な違いはなく、【心】があるかないかを証明する手段もない。


「例えば親しい人が亡くなって、それを生き返らせてくれる魔法があったとしよう」

「ファンタジーやゲームでいう蘇生魔法ですか?」

「そうだ。生き返ったその人は、死ぬ前とまったく同一人物といっていい。記憶や言動どころか、思考の癖でさえ、その人そのものだ」


 だが、魔法の仕組みは正確には生き返らせたわけではなかった。


 俺は続けて語る。


「死んだ人間は生き返らない。その前提をもって肉体のみを復元する。記憶だけを復元する。それを元に自動的に反応する魔術的装置を組み込むだけ」

「それは人間なんでしょうか? 親しかった故人と同一人物なのでしょうか?」


 舞彩はそう答えると、はっとしたように口元に手を持っていき、表情を固まらせる。


 彼女も気付いたのだろう。そして、それこそが思考をシミュレートしただけの反応だ。


「この魔法のペンも同じだよ。無から有機物を作りだして人型とし、そこに自動的に反応する魔術的装置が組み込まれたのだとしたら……」


 俺を慕う姿勢も、俺を気遣う言葉も、すべてが自動的に作り出された反応なのかもしれない。それはただの人形……いや、それ以前にただの絵なんだ。


 ギリシア神話に出てくるピュグマリオンは、自分で作った彫像に恋をした。彼は現実の女性に失望していたという。まるで俺と同じではないか。


 そして、アフロディーテによって人間にされた彫像には、はたして【心】はあったのだろうか?


「わたくしには【心】がないのでしょうか?」


 ふいに舞彩がぽろりと涙をこぼす。感動的な場面ではない。それこそがシミュレートの結果だ。感情の発露ではなく、ただの現象。


「皮肉だよな。俺は【心】のあるリアルな女性に不信感を抱いて生きてきた。けど、とうとう作られた存在であるはずのおまえのことまで疑うようになってしまった」


 俺には何かを愛する資格がないのかもしれない。不信感を拗らせすぎた俺は、もう誰も信じることができなくなる。


「もしかしたら、わたくしの言葉も行動もすべてニセモノなのかもしれません。けど、それでもご主人さまがわたくしを大切にしてくださった想いまでは否定しないでください」


 涙をぬぐった舞彩が健気にそう訴えかける。


「それは俺自身が創作した絵に思い入れがあっただけの話だ」

「ご主人さまは昔、コミックのキャラクターに夢中になりましたよね? 物語に感情移入して、ヒロインに恋をしていましたよね? それとどこが違うのですか?」

「よく考えればそんなのは異常だ。だからこそ、俺は気付いてしまったのかもしれない」


 ネガティブな思考は、俺をどん底に突き落としていく。自業自得とはいえ、なぜこうまで胸が苦しいのだ?


 ただの絵に恋をして、それがただの絵であることを再確認しただけ。


 だが、舞彩は諦めないようで、俺に対してさとすように語りかけてくる。


「万物に魂が宿る。この言葉にご主人さまは心当たりがございませんか?」


 それは無信仰の俺でも、いつの間にか刻み込まれた感覚。


「魂は生まれるものではなく、宿るものだと?」

「ご主人さまは人間はあまり好きではないかもしれませんが、人間が創り出した物や創作物には敬意を表していましたよね?」

「ああ、たしかにそうだ」

「無機物の道具でも、存在しない創作人物でも、ご主人さまはそれらを大切に扱うことができます」

「何が言いたいんだ? 舞彩は?」


 いくらシミュレーターであれ、予想を大きく超えるような答えを出すこともあるだろう。ほんのわずか、俺は期待しているのだろう。舞彩がそんな振る舞いをすることを。


「もし、わたくしに【心】がないというのであれば、わたくしに【心】を授けてください。それはご主人さまの願いから生まれます」

「……」


 願い?


「今はただの道具だと感じるかもしれませんが、ご主人さまの愛情を注いでいただければわたくしは【心】を宿すことができるかもしれません。それは、もしかしたら【魂】と呼べるものになるでしょう」

「根拠は?」


 意地悪を言ってるわけではない。純粋に俺はそれを欲しているのだ。それを安心して信じられるような証明を。


「ご主人さまは【哲学的ゾンビ】の思考実験がどういう経緯で生まれたかをご存じなはずです」

「ああ、思い出したよ。あれは物理主義を批判するさいに用いられる論理だったな」


 世の中のものはすべて物理的に考えられるということ。生きている人間でさえその物理法則によって動いているだけ。つまり、心の存在を否定するのが物理主義である。


 だからこそ、デイヴィッドはクオリアという心の存在を証明するものを使って、逆説的な論法に持ち込んだのだ。


「ええ、それに、わたくしはこの世界に生まれ出たときに、言語化できないようなワクワクする感じを抱きました。それは、そう、まるで白黒の世界からカラーの世界に移ったかのように。このなんともいえない言語化できない感覚質を……クオリアと言うんですよね?」


 使い魔は生まれる前に俺と知識を共有するという。そして新しい世界を見た時にクオリアを宿すのは、まさにフランク・ジャクソンのマリーの部屋そのものじゃないか。


「信じるのではなく、おまえを育てろってことか?」

「ええ、そうです。人外というものを理解したうえでご寵愛いただければ、わたくしは【心】を宿すことができるでしょう。それはご主人さまが、今までずっとやってきたことです」


 舞彩のその強引な理屈に、俺は揺らいでいた。


 例えば好きなマンガを思い出す。


 夢中になって読み込んで、キャラクターに感情移入し、ヒロインに恋をする。それって、ただの紙とインクじゃないか。リアルな女性ではない。いや、リアルな女性以上に夢中になった。


 俺は異常なのか?


「俺は歪んだ愛情しか向けられない」

「それこそが、ご主人さまの長所なのです。あなたは、ただの無機物でさえ、人と同様に愛せるのですから」


 舞彩の手が俺に触れる。温かくて柔らかな肌。


「今のわたくしはこの世に存在しています。このぬくもりが伝わりますよね?」

「ああ」


 その手をとり、舞彩が自分の胸元へと触れさせる。


「この鼓動がわかりますか? 使い魔であれ、基本的には人間と似たような構造となっています。この鼓動は、精神的なものに左右されるんですよ。今、わたくし、とてもドキドキしています。この感覚をご主人さまに伝えられないのがもどかしいです」


 熱い眼差しからは生命そのものを感じる。鼓動がドクドクと俺の右手を振動させる。


 だが、そんなものはただの幻。思い込みなだけだろう。ただの現象だと。


 でもさ……。


 例えば、夕焼け。


 自然が形作り偶然の産物できたその風景に、人は感動する。


 あの風景自体に心なんてものは存在しないってのに。


 だけど、人はそれを見て心を揺り動かされる。


 舞彩にしても、あの夕焼けにしてもすべては観測者側の心の持ちようで変わってくるのだ。


 だからこそ、俺は無機物にでさえ愛情を注げる。


 それは空しいことなんかじゃない。


 だって俺は、魂も持たぬ二次元の美少女に恋してきたじゃないか!!!


 ただのデジタルデータのイラストにさえ心を動かされた。そこには魂など宿ってはいない。


 なんだよ。別にイラストでも構わないじゃないか。


 なぜか安堵する。


 もしかして、リアルの女性でないことが逆に俺の心の負担を減らすのか?


 幸いここには俺のその行為をバカにするやからは存在しない。ただの自己満足だろうが、マスターベーションだろうが、俺は俺の好き勝手にやれる世界なんだ。


 俺が幸せかどうかは俺が決めるんだよ!


 理想の女性を描いて実体化して、それに心を動かされたとしても、誰に咎められることもない。舞彩は舞彩であり、人間かどうかは関係ない。


「舞彩……俺が悪かった。俺が理想の女性として描き上げたお前の存在を否定するなんて、どうかしてたよ」

「ご主人さま。これは、わたくしの使い魔としての本能が言わせているのかもしれませんが……ずっと側にいさせてください」

「ああ、それは約束する。

「あとこれは、わたくしの言語化できない感覚ですが、ご主人さまに触れるのはとても心地がいいんです。それこそ都合のいい台詞なのかもしれませんが」


 こうまで言われて、俺は彼女を拒絶することなんてできない。


 彼女を抱き寄せ、顔を近づけ、その舞彩の驚いたような表情に俺の心は昂ぶっていく。


「舞彩」

「ご主人さま」


 お互いに呼び合って見つめ合って、どちらからともなく唇を寄せる。


 最初は触れるだけのキスだったが、お互いに盛り上がってきてそれは濃厚なものに変わっていく。


 俺も男なので、一度火の付いた衝動を止めるのは難しい。当初はキス止まりで抑えるはずが、舞彩の一言で心の堤防は決壊した。


「わたくしをあなたの色に染めてください」

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