おめでとう依存症患者の独白

秋田健次郎

独白

 いくつの時だったか忘れてしまったが生まれて初めて言われたおめでとうは


「誕生日おめでとう」


 だった。私自身は何もしていないのになぜか祝われる誕生日というものが好きだった。


 小学校に入ってから初めての運動会で徒競走の一位になった時もおめでとうと言われた。かけっこ自体が好きだったのもあるが自分の能力による成果を褒められて嬉しかった。


 中学一年生の時に初めてテストで学年一位を取った。中学生になったということで少し気合を入れて勉強したおかげだ。その頃になると運動ではあまり良い結果を出すことは出来なくなっていた。だからこそ余計にテスト学年一位を祝われた時は嬉しかった。それから私は他のものには目もくれず勉学の道へと走っていった。


 高校生になって


「将来就きたい職はありますか? 」


 と聞かれた時に私は誰かから貰うおめでとうのために勉強しているということに気がついた。


「おめでとう」という言葉は案外日常生活にはありふれておらず「ありがとう」や「ごめん」のように簡単に手に入れられるものではない。他者から祝われて然るべき結果にのみ与えられるものであるのだ。


 私は出来るだけ多くのおめでとうが欲しかった。だから人生をかけて大学受験に挑むことにした。高校3年間という一般に青春と称される時期の全てを受験勉強につぎ込んだ。友人と駄弁ったり、恋人を作ったりしても決しておめでとうとは言われない。


 そして、私は日本で2番目に賢いとされる国公立大学に合格した。両親や祖父母、学校の先生はもちろん近所のおばさんからも


「合格おめでとう」


 という祝福の言葉を受けた。ただ大学に合格しただけというはずなのに人生の全てを肯定されたような感覚に陥った。


 私は「おめでとう」というその言葉のためだけに大手企業に就職して結婚し子供をつくった。

「おめでとう」という言葉を浴びるたびにもっと「おめでとう」と言われたいという欲求が強くなっていった。


 そしてある時、死という「おめでとう」とかけ離れた存在のことを考えた。

 自らの死という事象を祝いの対象とするためにはどうすればいいのか。その命題はおめでとうに生かされてきた私の最期の使命のようにも感じた。


それから時が経ち、体が弱り始めていよいよ人生の終わりが見え始めた頃、私はつい


「俺が死んだら喜んでくれるか? 」


 と聞いてしまった。すると息子に


「そんなわけないだろ。」


 と一蹴されてしまった。私はこれがただの気遣いであり、本心では嬉しいと思ってくれていることを祈った。それでも心のどこかで息子にそう言われて嬉しいと思ってしまった。

「おめでとう」に生かされてきた私が人から悲しまれることを喜んでしまったという事実こそが死に近づいている証拠なのだろう。


「おめでとう」と言われるためにはその何倍も人に「ありがとう」と言う必要がある。感謝して感謝されるような人でないと他者から「おめでとう」とは言われないからだ。

 私は善人を最後まで演じてしまったが故に死を悲しまれる人になってしまった。

 どうか、私が死んだ暁には家族みんなで祝杯をあげて


「おめでとう!」


 と言ってくれ。

 そんなことを思いながら私は静かに目を閉じた。


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