長いトンネル

凍龍(とうりゅう)

あれから三年

「この場を借りてみんなに伝えたいことがあるんだ」


 設立三周年記念パーティの席、僕らが立ち上げたベンチャー創設メンバーの紅一点、そして三年来、ずっと僕の思い人でもある天音さんが突然とんでもないことを言い出した。


「少し前から考えていたんだけど、私、ここを辞めることにするよ」

「えっ!!」


 居並ぶスタッフ全員が驚愕した。


「え、ど、どうしてですか!?」


 社長の紺屋までが青い顔でそう問いただす。


「ここまで頑張って、ようやく利益も出せるようになって……、社員も増やして、これからっていう時に」

「うん、それはよくわかってる」

「だって先輩、これまでずっとお給料だって出たり出なかったり、それがやっと安定してきたって言うのに、どうして!」


 僕も必死で引き留める。


「これからなんですよ。天音先輩がいなかったら僕ら……」

「……それは、大丈夫だよ」


 天音さんは優しい目をして微笑んだ。


「ここには紺屋がいる。君がいる。新しいスタッフだってずいぶん増えた。みんな頼もしいヤツばかりだ」

「だからと言って天音さんが居なくていい理屈になんてなりません。一体どうしてなんですか?」

「うん、理由は本当にプライベートなことなんだ。あんまり言いたくないかな」

「そんな! 酷いですよ。絶対に納得なんて……」

「しょうがないことなんだ。そんなにいじめないで欲しい」

「何言ってるんですか! ぼくはずっと天音さんを尊敬していました。僕はあなたと一緒だからこれまで頑張れたんです。それなのに……勝手ですよ!」

かず! 言い過ぎだ!」


 紺屋にたしなめられ、僕はようやく口をつぐむ。

 そんな僕を、天音さんはなんとも複雑な表情で見つめていた。

 結局、お互いに気まずくなり、本当に聞きたいことも伝えたいことも言えないまま、僕は正体なく酔い潰れてしまった。




 週明けの月曜日、天音さんのデスクはきれいに整理され、引き出しの中はすっかり空っぽになっていた。

 一方で、僕のデスクには彼女が担当していた業務の引き継ぎ書類が置かれていた。

 分厚いA4ファイルが全部で七冊。

 担当業務それぞれの詳細な内容、社内手続きの控え、各クライアントとの交渉や取引の履歴、先方担当者の名前や連絡先は言うに及ばず、趣味や好きな食べ物、家族構成やペットの名前にいたるまで。

 これまで彼女が蓄えた業務関連の情報がすべて網羅された、本当にとんでもないデータベースだった。

 どうやら、僕が正体なく酔い潰れ、二日酔いで痛む頭を抱えて転げ回っていた土日の間に出社してまとめたものらしい。


「どうして……」


 僕はそのまま呆然と立ち尽くす。

 重ねられたファイルの一番上には、〝ごめんね〟と、手書きで四文字だけ書かれた付箋が貼り付けられていた。


「……かず


 背中から声をかけられてぎくりと振り向く。


「お前知ってたのか? どうして!」


 僕は紺屋に食ってかかる。


「おととい、自宅うちまで辞表を持ってきた」

「僕はまだ、ちゃんとお別れすら言っていないんだ! それに……」


 だって、あまりに理不尽だ。


「彼女はかけがえのない戦力だってお前もいつも……それなのにどうして認めたんだよ!」

「絶対に必要なことなんだと言われた」

「何でだよ? 理由を聞いたんだろ? 天音さんはどこに行くつもりなんだ? それに、どうして俺に教えてくれなかった」

「悪い……」

「ごまかしてないで教えろ! 何でなんだ?」

「すまない。それは教えられない」

「どうして!」

「……すまない。お前にだけは……」


 彼はそれだけ言って目を伏せる。

 結局、紺屋は僕がいくら脅そうとなだめすかそうと、絶対に口を割ろうとはしなかった。




 弱小ベンチャーの宿命として、基本的にいつでも人手不足で忙しい。

 彼女が突然消えた穴を埋めるため、心に釈然としない部分を抱えつつ、僕はしゃにむに仕事に打ち込んだ。

 天音さんは取引先に多くのファンを持ち、そして誰にも辞めることを告げていなかった。

 突然の担当者変更に文句をつけるクライアントも少なくはなく、天音さんが担当でないなら取引を打ち切ると言ってきたクライアントすらあった。

 俺は何日も徹夜を続け、先方の無茶な要求に必死で応える一方、彼女の残したデータをフル活用してなんとか担当者のご機嫌を取ろうと努力はした。

 それでも何件かの顧客を失い、欠けてしまった売り上げを補うため、急遽ペアを組まされた新人と新規開拓の営業までこなすことになった。

 本来、僕は技術エンジニアリング担当で、営業は得意じゃない。

 そんなことは自分が一番よくわかっている。

 それでも、あえて度を超えた忙しさに身を置くことで、僕はどうにか天音さんの消えた痛手を乗り越えようとした。

 あの頃の出来事は、正直今でもちゃんと思い出せない。

 そして……。

 三年が過ぎても、僕は相変わらずぽっかりと穴の空いた心を抱えたままだった。



「先輩、よかったら晩ご飯、ご一緒にいかがですか?」


 深夜のラボ。休みを取っていたはずの後輩がひょっこりと顔を出した。


「なんだ、帰ったんじゃなかったのか?」

「ええ、ちょっと。実はレイトショーを見てきたんですけど、内容があんまりだったので、この憤りを誰かにぶつけようと……」

「俺でうさ晴らしすんな」

「間違えました。この気持ちを誰かと分かち合いたいと――」

「グチが言いたいだけなんだろ?」

「えへー。ばれちゃいましたか」


 彼女は天音さんが抜ける少し前に採用された新人で、明るい性格と見かけによらぬ粘り腰で、結構な営業成績を上げている。

 三年前、まるで抜け殻のようになっていた僕とペアを組み、その後僕が天音さんから預かっていたクライアントのほとんどを引き継いだ。

 ゴタゴタで失ってしまったクライアントを奪還しただけでなく、新規もけっこう取ってくる。少なくとも、もう僕の助けは必要ない。十分に一人前だ。

 それなのに、何が楽しいのか、暇さえあればラボに顔を出し、引きこもりがちな僕をなんやかんやと口実をつけて引っ張り出しに来る。


「もう遅いぞ。電車がなくなる前に帰れ」

「えー、一緒にご飯、食べましょうよー」

「こんな時間に食うと肉になるぞ。それに、珍しくそんなきれいな格好してるのに。誰かの結婚式か何かか?」

「あ、それなら大丈夫です。私、燃費悪いんで。それにこの服は……」


 そのままじーっと見つめられる。どうにも諦めてくれそうにないので、どこか近くで軽く食事を取ってさっさと追い返そうと思い直す。


「じゃあ、行くぞ。ラーメンでいいか?」


 彼女に聞こえないように小さくため息をつきながら立ち上がり、背もたれに引っかけていたブルゾンをはおる。


「いやー、持つべきは話がわかる先輩ですよねー」

「こっちは迷惑だ」


 軽く頭を小突く振りをすると、ペロッと舌を出しながら何がうれしいのか声を上げて笑う。

 その表情を見た瞬間、僕の胸にチクリと小さな痛みが走った。


(そういえば、天音さんもよくこんな感じに笑ってたな)


 小さく頭を振り、僕は彼女の面影を無理やり頭から追い払った。




「先輩、彼女とか作る気ないんですか?」


 並んで豚骨ラーメンをすすりながら、不意にそんな事を聞かれた。

「ああ、この歳で今さら、な」

「何言ってるんですか、まだギリギリ二十代でしょ?」

「バカ言うな。三十までまだ三年以上あるって!」

「え! 先輩、そんなに若いんですか。一体何才で起業したんですか?」


 後輩は本気で驚いたようで、こぼれ落ちんばかりに目を見ひらいてみせる。


「あ? ハタチの時だけど?」

「はえー」


 変な声で驚いている。


「でも、先輩っていつもしかめっ面してるからちょっと……」

「老けて見えるってか? うるさいわ」

「じゃなくて、最近はめったに見れないですけど、先輩って笑うとかわいいです。絶対その方がいいです」

「かわ!……悪かったな、無愛想で」


 そう返すと、後輩は口をとがらせて考え込む素振りを見せた。


「……先輩」

「なんだ?」

「もう、三年なんですよ」

「何がだ?」

「先輩……」


 後輩は急に真顔になる。


「ちょっと……」


 そういって腕を引く。


「わあ、待て、まだスープが」

「いいから!」


 すぐ近くの公園に連れ込まれると、強引にベンチに座らされた。

 ビルに挟まれ、水銀灯が頼りなく照らす狭い公園には、ベンチと水飲み場以外にさしたる物もない。


「先輩」


 そのまま横に腰掛けると、彼女は俺の腕を掴んだまま真剣なまなざしを向けてきた。


「お願いです、先輩。先輩の中の天音さんを、もう解放してあげて下さい」

「……」

「もう、見ていられないんです。あの日から、先輩、ずっと無理してます」

「い、いや、俺は」

「知らせを聞いたあの日から、何日も何日も、ぶっ倒れるまで徹夜して、そんなことを何度も何度も繰り返して……。お通夜にもお葬式にも出ないし、お悔やみをくれたお客さんを逆に殴っちゃったりするし……」

「おい、ちょっと待て!」

「先輩、天音さんは亡くなったんです。もう、どこにもいないんですよ!」


 叫ぶ後輩の頬に涙のしずくが一筋流れる。

 その瞬間、ずっと蓋をしていた記憶がまるで爆発したように一気に脳裏によみがえった。

 そうだった。彼女は、会社を辞めて間もなく世を去った。末期の乳ガンだったと聞いた。


「今日、三回忌だったんですよ」

「え?」

「何度も誘いましたよね、一緒に行こうって。どうして天音さんのことだけそんなに都合良く忘れちゃうんですか? いつもいつも!」


 本当に、どうして忘れていたんだろう。

 どうやら、僕は天音さんの死が受け入れられず、それに関わる一切の情報を自動的に意識から削除していたらしい。


「私、先輩のことが好きです。大好きです」

「え!」

「だからこそ、天音さんのことを忘れられずにいる先輩が心配なんです」


 そう言って、後輩は僕の胸にしがみついて大声で泣いた。

 いつも笑顔で、明るくて、人なつっこくて、粘り強くて、本当にいい子で……。

 そんな彼女が号泣している。泣かせたのは、僕だ。


「ごめん」

「本当ですよ! お願いですから、私にも、先輩の重荷を一緒に背負わせて下さい」


 その声に、僕はようやく長いトンネルの向こうにかすかな光を見たような、そんな気がした。



――了――

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