三年目の異世界で望むのは

東羊羹

三年目の異世界で望むのは

 ─ 男 ─

 幼い頃、彼は主人公になりたかった。


 それは誰もが抱くような、ごくありがちなものだ。


 倒すべき明確な敵が存在し、正義の自分は夢と希望を抱き、剣と魔法を自在に操り、多くの仲間と未知の地で冒険を続ける。


 しかし時が経ち、内にいる自分は語りかけるようになった。


─あれは違う生き物だ。


 自分にはまぶしすぎたのだ。主人公は未知を楽しみ、道を切り開く中央にいると信じて疑わない。最後には「心」や「思い」がいかなる問題であろうと解決してくれる。


 要は生意気にもデウス・エクス・マキナに違和感を抱いていたのだ。


 そんなものは存在しない。だから彼は切に望んでいた。

 

 誰もが手にし得る「一般的な」幸せを。

 

 ◇

 

 その時の流れはよく覚えていない。いつも通り会社から退勤する最中の事。彼女から電話が来たのでスーツの胸元からそれをとった。信号が明滅していたので小走りになって…。


 ◇


 まわりは薄ぼんやりとしていて、靄がかかっていた。


「俺は…どうなった…」


 スーツは別に汚れてもいないし、体のどこにも異常は見当たらない。しかし漠然と襲い来る不安感から、ふらふらと立ち上がり周囲を見渡した。


─クロノスとカイロスを知っているか。


 頭の中に声が響いた。ヘッドホンで音楽を聴いているときよりも明瞭に、頭の奥底に語り掛けてくる。


「…そんなものは…知らない」


─二人とも時の神だ。流れゆく時の中のほんの一瞬から、好奇心でお前をつまみ上げた。お前は機会に見初められたのだ。幸運の神は前髪しかない。意味が分かるな?


 ああ。これか。己の代の時は日常に稀有な少女が現れて物語を進展させていったが、一回り下の代の今は、己が新しい世界に行って自由を謳歌する。

 

 これが異世界転生という奴なのだな。


「だとしたら…俺は異世界に行くことになるのか」


─お前たちより一つだけ上の次元にいる我々…お前たちが神と考える我々が叶えられる範囲であれば大凡望む待遇を叶える事はできる。


 神と呼ばれる存在の声に対して、彼は躊躇なく伝えた。


「戻してください。元の世界に。今までと同じ日常を返してください」


─それはできない。


「どうして!?あなたは神なのでしょう!?時を司ると自称するならそれくらいは問題なく出来るはずでは!?」


─お前は虫を捕まえ飼育した事があるだろう?その虫を元の場所に寸分違わずに戻せるか?神は世界という箱の飼育はできる。快適な環境も作るもよし、放置して滅茶苦茶にするもよし、任意の一匹をつまみあげて生殺与奪も自由だ。単に目に入ったお前をつまみあげたから環境の整った箱に移してやろう、それだけの話なのだ。


「私は…本当にもう戻れないのですか…?いま向こうで私の体はどうなっているのですか…?」


─肉体は存在しない。我々が箱に移すために掴み上げたからだ。 


「ならばせめて元の箱に戻してください!私は他の場所になど行きたくはない!寸分違わず戻せなくても箱に…元の世界に戻すくらいはできるはずだ!」


─よく分からない事を言う。なぜそのように固執する?お前は機会を手に入れたと言ったはずだ。この様子を見るに、その狭い世界からは出た方が良い。きっとその方がお前は幸せになれる。せっかくつまみ上げたのだから綺麗な箱に移してやるのが飼育者の我々だ。


「嫌だ!そんな事は望んでいない!やっと積み上げてきたのに!俺はこれで満足しているんだ!ふざけるな!帰せ!!」


─ならばさらなる幸福を与えてやるのが飼育者の我々だと言っているのだ。そうだな、お前たちの時間で例えるならば…三年もすれば慣れる。その幸せを享受しているはずだ。


 気づけば彼は小綺麗な家にいた。かつて目を通した書物から鑑みるに自分にも何かしらの身体的向上が見られているのは明らかだろう。だがそんな事はどうでもよかった。彼は机を見つけると頭を抱えた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


─ 女 ─


 その女性は待ち合わせ場所の駅でせわしなくスマートフォンの操作を、厳密には同じ動作を、電話をかけるための動作を何度も何度も繰り返していた。

 あの人から連絡がない。最後に電話した時に金属を叩き付けるような音がして、その後は何度呼びかけても返事がなかった。本当にコードが切れるようにぶつりと。いや、元からそこには連絡する相手などいなかったかのように。

 翌日は土曜日だった。だから一緒に食事をした後、共に家に戻り外出の準備をして、その時に結婚について…両親への挨拶の段取りを話し合う予定だった。


 心拍数が一気に上がって、血の気が引いてくる。ただの充電切れならばわかる。なんだかんだ彼はスマートフォンを触る回数が多かったから。

 

 しかしあの金属音が頭から離れない。

  

─会社の近くまでいくね。ごめん、もし入れ違いになって待ち合わせ場所についたら連絡してね。


 メールを送り、彼の会社の最寄りの駅まで小走りで向かう。電車はどうあがいても同じ時間にしか来ないというのに。電車に乗ってつり革を震える手で掴み、何度も画面を見直し反応がないか確かめる。無反応だ。


 あまりの様子に彼女を見かけた人が席を譲ってくれたが、彼女の耳には入らず、目的の駅に到着すると一目散に駆け出した。


 信号の前に人だかりができている。パトカーに救急車、そしてほんの少しへこんだ乗用車が一台停められている。

  

「…あの…事故でもあったんですか?」


 不思議そうな顔をして顔を見合わせて話をしている五十代くらいの気さくそうな女性に話しかけてみる。 


「ええ、そうなのよ。男の人があの車とぶつかったらしいんだけど…その人の姿が見当たらないってみんな騒いでるの…ほら、あれ見て」


 ゆっくりと目を向けると道路の一部に血痕がついている。しかしどこを見渡してもその血痕の当人は見つからず、警察も救急隊員も、早口で何かを話している。


 その時。


 本当に道路の隅の方で一瞬鈍い光を放つものがあった。誰も気づいていないようであった。人混みをかきわけてそこへ向かってしゃがみ込む。


 ネクタイピン。


 ほんの少し色が剥げかけている。


 じわじわと涙が出てくる。それはありきたりに、事故に遭ったのが自分の彼だと察知してその悲しみの喪失から襲い来るものではない。恐怖だ。自分の大切な男性が事故に遭ったの「かもしれない」。その可能性が限りなく高い事に対して感情が落ちつけと言っているのだ。


 忘れもしない、「それ」は誕生日に自分がプレゼントした物だ。ネクタイがひらひらして歪んでいるとカッコ悪いから、と。せっかくスーツが似合っているんだから、と。


 彼はネクタイピンをよく自慢してきた。もらってからネクタイする時はずっとつけてるんだぜ、すごいだろ、と。プレゼントした三年前からずっと。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


─ 男 ─


 念じれば手から炎が出た。擦り傷ができれば手をかざすだけで治った。たぶん疲れやしないだろうが走る気力はあまりなかった。


 スマートフォンはついぞ動かなくなった。そのまま放置した。放置せざるを得なかったのだ。手からいくら電撃を放てようと充電するにはクソの役にも立たなかったからだ。神はその手の知識を授けてくれなかったようだ。


 スーツを着ているという事で、街に出てみた時には奇異の目で見られた。幸いに日本語は通じたので世界の大凡の情勢は知っている。いま自分がいる国と隣国で資源の採掘できる土地を巡って小競り合いがあり、そのうち大がかりな物になるのではないか、と賑わっている。自分には関係ない。恐らく力で解決できるだろうし、自分に寄り付こうとするものはいない。


 というのも街に出た時にありがちなゴロツキに絡まれた時に、怒りに任せて相手の両腕をへし折ったからだ。まるでスナック菓子をつぶすような感覚だった。きっと神が自分の力を上げてくれたのか、もしくはこの国の人間と思しき生き物の身体能力を著しく下げてくれてくれていたようだ。


 暦を表示する紙を見ながら壁にかけてあるネクタイを見るたびに、恐ろしい喪失感に苛まれる。毎日つけていた「あれ」がないからだ。


 こちらで言うひと月は二十日間隔のようだ。そして一年は十五か月で一年換算するようだ。別にそこは大事な事ではない。その暦…有体に言えばカレンダーを三部処分したからだ。


 三年経っても戻れる手がかりすら何もなかった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


─ 女 ─


 はじめのうちは警察も彼女に熱心に協力してくれた。事故遭遇者が行方不明になったという事で特異行方不明者扱いだからだ。しかしそのうち、事態がどうにも進展しようもない事を互いに察するようになり形式的な物に変わっていった。


 事故を起こした当人の所へも出向いてみた。彼の写真を見せてみたが、この人なのかもしれないが分からない。だが、確かに自分は人にぶつかった。運転しながら電話片手に商談していて信号への反応が遅れた、と。しかし結局は困惑するばかりで手がかりは得られなかった。


 思い切って彼の両親を訪ねてみた。何かしら連絡が来ているのかもしれなかったからだ。しかし何も連絡がないという。今まではなんとなく近況をメールなどで聞いてみると、落ち着かない、という理由で即日電話をかけてきていたのに、今回に限っては全くそれがなかったからだ。


 彼の両親はやつれ切った彼女に優しく伝えた。


「息子のためにありがとう。もし息子が戻ってきたら宜しくお願いします。だけど…あなたはあなたの幸せを大切にして。あなたが幸せになった後に息子が戻ってきたらそれは私たちが責任をもってなんとかするから」


「…ありがとう…ございます。申し訳…ありません」


 謝る必要などなかった。だが、彼の両親の言葉はあまりに大きく心に響いた。


◇ ◇ ◇ ◇


 彼の勤めていた会社は、手続きや引継ぎにこそ時間を割かれたが取引先には後任が担当となり、問題なく進むようになった。取引先の担当者に尋ねられても、諸事情で退職しまして、と半ば困り顔で言えばそれ以上の追及はなかった。


 彼女が勤めていた会社では、ほんの少しだけ彼女に対して周囲が距離を置くようになった。別に嫌われたからではない。どう声をかけた物か周囲が気を遣うようになったからだ。前の満面の笑みが消え、やつれてどことなく無理した引き攣った笑いを見るのが辛かったのもある。業務自体は滞りなかった。


 三年も経って業務に支障が出るわけはない。


◇ ◇ ◇ ◇


 彼は力を持て余しながらも家の隅でぶつぶつ呟いている。

 この世界には全てを牛耳る魔王などいないし、その魔王を討伐した所で元の世界に戻るゲートが出てきて仲間と感動の別れが待っているわけでもない。

 そもそも神は彼を使命を以て彼をいまの世界に遣わしたわけではなく、ただ純粋な気まぐれと善意なのだ。


「神様。聞こえてるならさ…もう、戻してくれよ…」


 積み上げてきたものは三年で崩れ去ったというのに。その箱に希望があると縋りついて今の箱の中を謳歌しようとはしない。

 彼はその世界のケージを虫のように上って、微かな隙間から這い出る事ができないのだ。 


 神はそのケージをのぞき込みながら不思議に思う。彼が主人公として何不自由ないであろう環境は整えたつもりだ。確かに気まぐれであったが彼は幸運のはずなのだ。彼はいまの力を行使する事で世界の中心になれる。幼き頃、夢見たような主人公になれるというのに。

 

 彼が積み上げてきた三年などという時は、時を掛ける神クロノスにとっては、一瞬の時間をつかみ取るカイロスのように膨大な流れの中のほんの一瞬に過ぎない。


 だが、その一瞬の中で彼はささやかな世界で主人公として己の力で動いていたのだ。


 一つ上の飼育者にとっては、そんな事は知る由もないし理解もできない。


【完】

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